沖縄旅行のお供にどうぞ
2004年7月12日(月) 16:08:49
選挙に行けるという夢のような幸せ
2004年7月11日(日) 7:37:08
今日は参議院議員選挙!
ボクの一票が国政を変える、なんてことは思わない。でも、ボクは選挙をさぼれない。申し訳なくてさぼれないのだ。平等に分け隔てのなく一票を投じられるようになるために、いったいどれだけの血が流されてきたか。普通に選挙に行けるという権利を得るためだけに、人生の大半を費やして闘った人たちがどれだけいたか。国民が皆平等に選挙に行ける、という今では何でもないことが、昔は夢の出来事だったのだ。机上の空論に近い理想論だったのだ。選挙に行かないことは、その理想を現実化してくれた先人たちの努力や命を無にする。そんなことはボクにはできない。
明日は選挙
2004年7月11日(日) 1:07:39
今年で最後になるかもしれないセパ対抗によるオールスターを観つつメシ喰ってるうちにメールいろいろ。激しい非難がまた多い。ずっとさなメモで書いてきた北朝鮮拉致問題に対するボクのスタンスの延長線上で書いているつもりなので、長く読んでくださっている方からは理解・賛同のメールも届いているのだけど、それらを読んでいない方にとってはとんでもない意見に読めたようで。
報道も我々の思考も、拉致された人たちのあちらでの数十年の人生を(結果として)否定する言説になってはいないだろうか、という視点を投げかけたかっただけなんだけど、ボクも誤解うけやすいような表現で書いているかもしれない。達意の文章で書けず申し訳なし。
今晩は少し涼しい。明日は選挙。朝早く行くつもり。寝よう。
陥りやすい思考図式
2004年7月10日(土) 17:38:05
ボクは、拉致被害者=可哀想、という思考図式にはまりがちな自分を戒めてるわけで、拉致も考えようによっては幸せさ、と嘯いているわけではないということはご理解ください。
拉致を被害とか不幸とか決めつけて考えていくと、結果、拉致された方々、そしてご家族の人生を「被害を受けた人生」「不幸な人生」と決めつけることにつながる。それは本人たちにとって非常に侮辱的である。人はそんなやわではない。
もちろん拉致は被害であり不幸。間違いない。
でも、それは客観的な第三者が客観的に語ることであって、本人たちにとって、それは「自分の人生そのもの」。幸せを求めていいたった一回の人生そのもの。それを外部が「被害の人生」「不幸な人生」「なんて可哀想」と決めつけることの傲慢さ、そしてそういう思考に思わず入り込みそうになる自分を反省しています。
もしボクが拉致されたとして、娘が「被害の結果として生まれた子」と世間から見られるのは我慢がなりません。被害だ不幸だという論ばかり発展させていると、本人たちのそこらへんの気持ちに鈍感になっていくなぁ、それはよくないなぁと感じたのでああ書いたのです。
不幸だと決めつける傲慢
2004年7月10日(土) 12:21:37
もし拉致されなかったら曽我ひとみさんはあの愛するご家族を持ち得なかったのだ、あの娘さんたちは存在すらしていないのだ、ということに想いを馳せるとき、拉致を「被害」「不幸」と一面定義して思考停止する己の浅薄さに気がつく。娘さんたちの視点に立つと「お母さんが拉致されて良かった」であり、曽我さんにとっても娘さんたちは掛け替えのない幸せの象徴だ。本当に愛せる家族を手に入れること以上に幸せなことはこの人生にそんなにない。そういう意味において、曽我さんにとって拉致は幸せの側面を確かに持つ(たぶん蓮池さんや地村さんにとっても)。もちろん彼らのご両親にとっては一方的被害・不幸だが、彼ら本人にとっては被害・不幸だけでは語れない側面があるわけだ。政治的な側面や人さらい被害の側面のみで語るとそれを忘れがちになり、何よりも大切にしなければいけない本人たちの気持ちに鈍感になりがち。そんなこんなで自分を戒めるここ数日。
