きっと、「もてなし」って、会っている間の接客をさすのではない
2017年3月18日(土) 22:40:12
![]()
江戸時代の大老・井伊直弼は、毀誉褒貶の激しい人物だが、ボクは尊敬に近い念をもっている。
彼が茶の湯について語った、こんな言葉に出会って以来、ずっとである。
余情残心。一期一会。独座観念。
一期一会、は、有名だよね。
原文はちょっと難しいので、超訳を先に上げてみる。
ぜひ、読んでみてください。
茶席が終わり、主客ともに名残惜しく別れの挨拶を済ませ、客が露地にでたならば、もう声高に話さず、亭主は客が見えなくなるまで静かに見送るものである。
すぐ中潜り、猿戸、その外戸障子などを閉めてしまうのはよくない。今日の饗応が台無しになってしまう。
客が帰って行く姿が見えなくなっても、片づけを急いではならない。
心静かに茶席に戻り、炉の前に独り座って、「もうちょっと話がしたかったな、今頃はどの辺まで帰られただろう」などと思いながら、今日の一期一会はもう二度と再び巡り来ぬことを観念する。独りでお茶を点てて一服してもよい。これこそ一会の極意である。
この時、打語らうもの、釜一口のみ。これは辿り着くのが実に難しい茶の湯の境地である。
原文だとこうなる。
主客とも餘情残心を催し、退出の挨拶終れば、客も、露地を出るに高声に咄さず、静にあと見かへり出行ば、亭主は猶更のこと、客の見へざるまでも見送る也。扨(さて)、中潜り・猿戸、その外、戸障子など、早々〆立などいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決て、客の帰路見えずとも、取かた付、急ぐべからず。いかにも心静に茶席に立もどり、此時、にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄も有べきに、もはや何方まで可被参哉(まいらるべきや)、今日、一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是、一会極意の習なり。此時、寂莫として、打語ふものとては、釜一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいたりがたき境界なり。
余情残心。
一期一会。
独座観念。
きっと、「もてなし」って、会っている間の接客をさすのではない。
人と別れたあと、しみじみと観念するに至る、こういう静かな境地のことまでを含めて、そう言うのだろうと思う。
もちろん、ボクはそんな境地に至っていない。
でも、好きである。
独りでしばしその場に残り、もしくは独りで小さなバーに移り、「今頃はまだ電車かな、どの辺まで帰ったかな」などと思い巡らす時間が好きである。
昨晩も、コミュニティで集まって、オフィスからみんなを送り出したあと、独りで暗いオフィスに残っていた。
独座観念。
今日の一期一会はもう二度と再び巡り来ぬことを観念する。
あと何年生きるか知らんけど、こんな気持ちで、会う人ひとりひとりと、丁寧につきあっていきたいものです。
