湯を沸かすほどの熱い愛に湯を沸かすほど沸かされた
2017年3月20日(月) 10:43:07
去年10月29日公開の映画なので、いまさらなんですけどね。
昨日、インドに行くべく、国際線でJALに乗ったわけですよ(ま、インドの話はおいおい書くとして)。
デリーまで約10時間。
機内は見逃した映画にキャッチアップする時間。
で、1本目を、いろいろ迷った挙げ句『湯を沸かすほどの熱い愛』にしたですね。友人が大絶賛してたので。
その次は何観ようかなぁ、最近の邦画は出来が良いので『聖の青春』(原作読んだし)にしようかなぁ、とか、観る前は思ってた。
でも、1本目を見終わったが最後、もう他の映画に行くことが出来ず、3回連続で観てしまったw
6時間強、心の湯を沸かし続けてしまった。
『ラ・ラ・ランド』がいまひとつピンと来ずもやもやした "人でなし" ですがw、『湯を沸かすほどの熱い愛』にはやられてしまった。
この映画、いったい何ですか?
もう涙も涸れ果てたよ。
主人公(宮沢りえ)は強そうに見えて普通に弱い。
でも、ある日倒れて余命を知り、営業中止になった風呂屋の誰も温めてくれない冷たい風呂桶の中で(象徴的場面)、ひとり涙に暮れたあと、静かに周りの人のための「薪火」を燃やし出す。
(風呂屋を再開するのも、その火に「薪をくべる」のがダメ夫であるオダギリジョーであるのも象徴的だ)。
「薪火」が燃えているのは風呂で温まっている人からは見えない。
彼女もそれを見せない。
でも、その「薪火」は周りの人々の「冷え切った心」を徐々に温めていく(みんながみんな辛すぎることを静かに抱えている)。
最終的にその「薪火」による熱い湯で芯から温まったのは、血の繋がってないたった5人。
たった5人である。
そういう意味で、世界を救うヒーローでも世の中を変えるヒロインでも何でもない。市井の人の、誰も意に介さない「熱」であり、「死」だ。
でも身近な人にその「熱」がずっと残る。
芯から温まったその「熱」がずっと残る。
そして、その熱は必ずいつか他に伝わり、他を温めていくのだろう。
そこにこそ、生をつなげる意味がある。
不特定な「多数」でなく、身近にいる「少数」をしっかり温める。お風呂を出てからもぬくぬくするくらい、しっかり温める。
人生ってそれで十分だし、そんなに尊いことが他にあるだろうか。
自分の中の「薪火」の状態と、その目的を、いちいち確認させられる映画だった。
余命がどうとかって、もう描き尽くされた題材だ。
でも、ボクが観たいままでの「余命もの」の中でトップかもしれない。
これが商業映画監督デビューだという中野量太監督の力量と、彼の心の中の「薪火」に賛辞を贈りたい。
(あえて言うなら、1カ所、主人公が母親に会いに行く場面のガラスが割れるシーン、弱り切った彼女の一投の演出だけ不満。あそこに突然の渾身感と、笑いを呼ぶくらいな「ブンッ!」的SEが欲しかった)
帰りの便でも、もう一回、観たいな。
というか、「この映画を応援するために」ブルーレイ、買おう。
