日航機事故があったあの暑い夏、ボクは新入社員だった
2010年8月14日(土) 19:31:14
おとといの8月12日は日航ジャンボ機事故から25年の区切りの日であった。
日航ジャンボ機事故から25年、つまり、ボクが入社してから25年が経ったことになる。
そう、ボクはあの年(1985年)にいまいる会社に入社し、大阪支社に配属になった。そして5月に赴任して3ヶ月でこの事故が起こったのである。大阪支社からは7人の犠牲者が出た。
たった3ヶ月ではあったものの、同じ部署(クリエーティブ局)だった上に、それなりに親しくさせていただいていた方が2人亡くなった。
永田晶令さん(当時53歳)。大学の先輩だったので「おぅ後輩!」とランチに何度か連れて行っていただいた。ガラガラ声の豪快のおじさん。須貝和郎さん(当時38歳)。この方は名物社員でのっしのっしと社内を歩き回っては新入社員にヘッドロックをかけたりしてかまってくれた。ホント、ふたりとも叩いても擂りつぶしても死なないようなタイプの人だったのだけど…。
あと、藤島克彦さん(当時47歳)も同じ部署。まだそんなにおつきあいはなかったが、何度かお話はさせていただいたうえに、ボクは藤島さんの葬儀担当となり、新入社員として葬儀の車係になったりしたのでとても思い出深い。
他にも、松尾省一さん(当時35歳)、岩井宏之さん(当時43歳)、本田寧さん(当時38歳)、吉田和太さん(当時29歳)が亡くなっている。当時大阪支社は1000人程度の社員数。その中の7人はわりと大きい。
なぜこんなに多いかというと、広告の会社なのでCM撮影とかが頻繁にあり、たとえ大阪のクライアントであっても東京での撮影・編集が多いんですね(タレントやディレクターは東京にいることが多いから)。だから東京出張が異様に多い。ボクも月30日東京出張とかよくやっていた。
つまり、18時羽田空港発大阪伊丹空港行きJAL123便は、ちょうど夜ご飯には大阪・神戸・京都の家に帰ってこられる便で、頻繁にうちの社員たちが使っていた便だったのである。
事故の翌日だったか、犠牲者の名前がわかった後のちょっと異様な社内の空気をよく覚えている。
そしてあの暑い暑い葬儀の日々。7人の方の社葬、そして個人葬。毎日のように喪服で通勤した。汗みどろで葬儀を手伝った。そうか。あれから四半世紀経ったのか…。
大学卒業してすぐのボクは葬式経験もそんなになかったし、知ってる人が急にいなくなるという経験もほとんどなかった。死とは何か、会社で働くとは何か、会社で働いて死んでいくとは何か、いろいろと肌身に沁みて考え始めた夏だったと思う。
そして毎晩のように飲みに行った夏でもあった。先輩たちの故人への思い出話は尽きず、徹夜で飲んでそのまま葬儀のお手伝いに行くとかよくやっていた。ある種の供養であり通過儀礼でもあったのだと思う。そしてボクはこの暑くて悲しくて酒臭い毎日で会社のDNAをしっかり植え付けられたのだと思う。それも濃く。かなり濃く。
あれ以来、東京ー大阪間の出張や旅行でヒコーキを使ったことはない。
というか、少々遠くても電車で行ける距離なら極力電車を利用する。博多に行くならヒコーキにするが、広島なら電車かな。いや博多でも時間があるときはのんびり新幹線で行く(片道5時間半)。JALは好きだしヒコーキは安全な乗り物だと思っているけど、近距離でヒコーキを使うとなんかあの暑い夏の喪服姿を思い出してしまう。
そうだ、あの年にはもうひとつ大きな出来事があったんだ。
阪神が21年ぶりのリーグ優勝、そして悲願の日本一になった年でもあるのである。
大阪にとっては大事件。大阪支社にとっても大事件。そして三代江戸っ子の巨人ファンだったボクにとっても大事件(笑)
でも、ボクはあの暑い夏の葬儀の日々ですっかり大阪に情が移り、あの夏から阪神ファンになったんだった。
それ以来ずぅっと阪神ファンである。ボクにとって「阪神ファンでいること」は「日航ジャンボ機事故のあの夏を忘れないこと」に近い。つまり、これからも一生、阪神ファンで居続けるだろう。あの事故を忘れることも、阪神ファンでなくなることも、ボクの人生としてはありえないことだから。
