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人生という演劇のすべてが入っている。想田和弘監督作品「演劇1」「演劇2」

2012年11月11日(日) 21:01:23

想田和弘監督の映画「演劇1」「演劇2」を観た。@渋谷イメージフォーラム

劇作家・平田オリザを追ったドキュメンタリーである。
想田監督は「観察映画」と謳っている。対象物に対する予備知識も先入観もなく、フラットな目線で観察していくタイプの映画。ナレーションも音楽もない。編集はされているが演出はない。観客は監督の観察につきあわされる。しかも「1」と「2」を合わせて5時間42分間も!

でも大丈夫。
めちゃおもろいから時間は知らぬ間に経つ。一度その世界に入り込むとあとはあっという間だ。腰はキツイが脳には快楽なのである。

映画はいきなり芝居の稽古の場面から始まる。
観客はポーンとそこに放り込まれる。まるで友人に連れられてよく知らない人たちが大勢いる知らない部室に入ったかのよう。所在ない異邦人感。

カメラは、平田オリザ独特の、数秒単位で演技を指定していく演出法を静かに追っていく。

ボクは平田オリザ作・演出の舞台(青年団)をいくつか観ているので、「あの出来上がりの裏にこういう稽古があるんだな」「現代口語演劇のナチュラルさの裏にはこんな緻密な計算があるんだな」みたいな納得と発見があったが、舞台を観てない人にはこのユニークな稽古がよくわからないかもしれない。

でも、舞台を観てない人も、次の場面、平田オリザによるワークショップの場面でその世界をある程度理解できるだろう。このように、要所要所で彼のワークショップやインタビューの様子が挟み込まれ、これがナレーション的な説明になっている。

「演劇1」の後半、ある講義の中で、彼はこんなことを言う。

「要するに仮面の総体が人格なんです。だから私たちは演じる生き物なんですね」

ポスターのキャッチにも使われているこの言葉はわりとキーポイントかと思う。平田オリザもまた演じる生き物なのだ。

つまり、役者たちを演出する平田オリザは、想田監督が回すカメラをどこかで意識し、カメラの前で演出家としての平田オリザをプロとして完璧に演出し、演じている。いや、カメラがなくても完璧に演じているのだろう。彼にとって人間は演じる生き物なのだから。「だって演技だもん。どんなに密着取材しても、人間の本質なんてどこにも転がってないよ」と、いじわるな平田オリザが仮面の裏で舌を出しているかのようだ。

「演劇1」のラストシーンは象徴的だ。

カメラの前で平田オリザを演じ続ける平田オリザが、あるサプライズのために実際に演出家・平田オリザという記号を演じている。演技の入れ子構造。単なるエピソードのように見えるがさにあらず。テーマに関わるとても重要な場面だ。「人生という演劇」の本質がわかりやすくここに描かれている。

そう、タイトルの「演劇」は「人生」と置きかえてもいいと思う。
「舞台における演劇」を題材に、社会という舞台で演じ続ける人間の姿を客観的に捉えた観察映画なのだとボクは思う。

「演劇1」は、そういう意味で、「人生という演劇」における「演技そのもの」を描いている。
「舞台における演劇」における平田オリザの演出手法を直接的に取り上げながら、「演じる生き物としての平田オリザ自身」を描いている。ラストシーンで想田監督はそれをよりわかりやすく示してくれた。親切だ。

きっとそのまま終わる手もあったのだと思う。1だけでも映画として完成度が高い。

でも、やはり2が必要だ。
「社会という舞台」での演技の実際を描かないとバランスを欠く。異文化(経営や行政や外国)の役者たちを得て、社会という舞台で平田オリザがどう自分を演出し、演じるか。そういう意味で「演劇2」は欠かせない。いや、2のほうが重要かもしれない。

2は、表面上は「芝居で食っていくのは大変だ」という内容になってはいる。
1と2両方で出てくる「まず食うこと それから道徳。」という三文オペラの言葉。これが心に刺さるし、実際、座長・平田オリザは日本と世界を飛び回る。人にも会いまくる。税金やら給料やらで苦労しまくる。芝居で食っていくための奮闘努力は並大抵ではない。

面白いのは、そういうアウェイでも、舞台というホームでも、彼の表情や態度に変化が見られないこと。戸惑いも遠慮も気負いも引け目も何もない。淡々と「平田オリザ自身」なのである。

そう、ほとんど表情が変わらない。超安定している。
社会という舞台で、日常という舞台で、演じる生き物としての平田オリザを完全に演じきっている。

ドキュメンタリーというものはどこかで対象物の人間くさい一面を映し出してしまうものだが(何をもって人間くさいというかは置いておいて)、この映画で平田オリザは最初から最後まで何も変わらない。まるでアンドロイドかロボットのように変わらない。劇作家・平田オリザを完璧に演出し、演じきっている。それも何もわざとらしくなく。演じてると気づかせないくらいナチュラルに。

そのことに気がついたとき、この映画がボクの人生に入り込んできた。

人間が演じる生き物であるとして、いったいボクは自分の人生をちゃんと演出し演じきれているだろうか。自分が主人公の舞台なのに、きちんと自分を演出できていないのではないだろうか。相手の演技に合わせて自分の演技を決めたり、脚本を読まずに演技していたりしていないだろうか。起承転結すら自分で決められず、どこか上空高いところにいる演出家の出ないかもしれない指示に頼っているのではないだろうか?

そんなようなことが、平田オリザと自分との比較によって浮き彫りにされていく。

そういえば村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」に同じようなテーマが書かれていたっけ。

「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ」
「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」


平田オリザ作・演出の青年団の舞台は、日常の何でもない時間をそのままナチュラルに現出させようとする。劇的なことは何も起こらず、淡々と日常が過ぎ去っていく。それは、なんでもない日常すべてが舞台であり、人はすべて役者であり、人生は演劇であることを示している。

ただ、当たり前だが、それは平田オリザの捉え方で、それが正しいかどうかは(人生観が無数に存在するように)また別の話。

映画の中で、つなぎカット的に「決して演出されない、演技しない存在としてのネコ」が頻繁かつ執拗に撮られている。
ここに想田監督の疑義が提示されている気がするのは考えすぎだろうか。

答えはない。
でも、この映画に、人生という演劇のすべてが入っているのはよくわかった。

今後の人生を深くしてくれる名作ドキュメンタリー。長時間ではあるが、時間を作って、ぜひ観ていただきたいと思う。

佐藤尚之(さとなお)

佐藤尚之

佐藤尚之(さとなお)

コミュニケーション・ディレクター

(株)ツナグ代表。(株)4th代表。
復興庁復興推進参与。一般社団法人「助けあいジャパン」代表理事。
大阪芸術大学客員教授。やってみなはれ佐治敬三賞審査員。
花火師。

1961年東京生まれ。1985年(株)電通入社。コピーライター、CMプランナー、ウェブ・ディレクターを経て、コミュニケーション・デザイナーとしてキャンペーン全体を構築する仕事に従事。2011年に独立し(株)ツナグ設立。

現在は広告コミュニケーションの仕事の他に、「さとなおオープンラボ」や「さとなおリレー塾」「4th(コミュニティ)」などを主宰。講演は年100本ペース。
「スラムダンク一億冊感謝キャンペーン」でのJIAAグランプリなど受賞多数。

本名での著書に「明日の広告」(アスキー新書)、「明日のコミュニケーション」(アスキー新書)、「明日のプランニング」(講談社現代新書)。最新刊は「ファンベース」(ちくま新書)。

“さとなお”の名前で「うまひゃひゃさぬきうどん」(コスモの本、光文社文庫)、「胃袋で感じた沖縄」(コスモの本)、「沖縄やぎ地獄」(角川文庫)、「さとなおの自腹で満足」(コスモの本)、「人生ピロピロ」(角川文庫)、「沖縄上手な旅ごはん」(文藝春秋)、「極楽おいしい二泊三日」(文藝春秋)、「ジバラン」(日経BP社)などの著書がある。

東京出身。東京大森在住。横浜(保土ケ谷)、苦楽園・夙川・芦屋などにも住む。
仕事・講演・執筆などのお問い合わせは、satonao310@gmail.com まで。

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