感心かつ呆然。必見のチェーホフ。〜青年団「アンドロイド版 三人姉妹」
2012年11月 2日(金) 11:50:34
クレイジーケンバンド・ライブのことも書きたいのだけど、こちらを先に。11/4に上演が終わってしまうので。
昨晩、青年団の演劇「アンドロイド版 三人姉妹」に行ってきた。 @吉祥寺シアター。
正確に書くと、青年団+大阪大学ロボット演劇プロジェクト アンドロイド版『三人姉妹』である。あの石黒浩氏がアドバイザーとして参加している。
平田オリザさんの作・演出で、チェーホフの古典を翻案したもの。
人間たちに交じってアンドロイドやロボットが実際に出演し、演じる。ちなみにロボットは機械で、HONDAのアシモを想像してもらうと早い。アンドロイドは生身の人間にとても近く作られた、合成樹脂の、リアルな見た目のもの。車イスにのって現れる。
当初は、アンドロイドやロボットが普通の人間を演じて、文楽の人形よろしく感情移入させていくのかと思っていたらさにあらず。まだ観てない方のためにくわしくは書かないが、それぞれに彼らしかできない役柄を与えられ、チェーホフの原典をより深掘りしていく。
というか、アンドロイドが絡むことで、人間同士の関係性と生の空虚さが浮き彫りにされていくのが面白い。
ストーリーには「死」が散りばめられている。
墓、焼け跡、社会的死、自殺、生者の残存思念、雁の弔いなどのモチーフが示され、不死のアンドロイドやロボットと対比され、人の寂しさを浮かび上がらせる。食事とか結婚とか浮気とか、「生」も散りばめられているのだが、それはとても(とても!)空虚に描かれている。
人生=時間であり、生とは時間の記憶の連続だとしたら(この前提をとりあえず設定するとして)、過去生と同期して決して忘却しないアンドロイドの生に「人の生」はまったくかなわない。
期限をもって生きる「人」の徹底的な寂しさはそこで、その期限の中で肩寄せ合って生きるために、「ごめん」「すいません」「ありがとう」などの挨拶を多用して、お互いに距離を確認しあって生存をはかっていく(演劇中、本当に多くの「ごめん」「すいません」「ありがとう」が使われる)。
ただ、アンドロイドも(当たり前だが)生きていない。
たとえば人が「いい匂い」と思ったモノを「いい匂い」と覚えるしかできなくて、そこに決定的な寂しさがある。食欲、性欲、睡眠欲などの生の実感はそこにはない。ロボットも、美味しい食事は作れるが、それを「美味しい」とプログラミングされているだけで、そこに感情はない。
さて、どちらのほうが「生きている」のか。
ロボットの存在にしても、「日々の営み」という「生そのもの」をロボットに任せてしまうとき、人はどう日々を「営む」のか。そしてそれは「生」なのか。
それらの問題をもっと深掘りすべく、その「中間」に生きる、重要な役回りの人が、短時間だが出てくる。
「肉」の触れあいを拒み、人間の自我とアンドロイドの自我に挟まれ、どちらも本当の自分と認識している。そんな人。実は主題はその人が回している。
あー、まだ公演中なのでボヤかして書くしかできないのだけど、よくぞこれだけの題材をぶちこんだ、と、感心かつ呆然。すごいなぁ。無性に酒が欲しくなった。よく夜とかご一緒するので油断してたけど、あらためて、平田オリザ、すごい!
12月にはパリで公演するという。
海外で話題になってしまう前に、ぜひ観てください。この日曜までだけど。くわしくはこちら。小さな箱なのでお早めに。
