真冬のスイカ
2006年12月21日(木) 7:16:58
季節はずれ、いや、季節違いのスイカを食べた。
ある驚異的な「隠れてない隠れ家店」でデザート代わりに出たのだが(この店の感想はまた書きます)、これがまたうまかったのだ。千疋屋と同じ仕入れとご主人は言っていたが、スイカ真っ盛りの夏に食べても最上等と感じるような美味。まぁ外は寒風吹きすさび、みんなコートの襟を立てて歩いているのが見える中、ざっくり切ったスイカに汁したたらせてかぶりつく妙なシズル感も手伝ってはいると思うけど。
高知のハウスものだと言うが、こういう季節を無視した食べ物を食べるとき、「旬をないがしろにするのもなぁ」とどこかで後ろめたく思いつつ、「本当に幸せなことだなぁ」という深い感慨を覚える。
「青柳」の小山裕久氏はその著書の中でこんなことを書いている。
八百屋の軒先に行けば一年中あらゆる野菜が溢れ、旬がなくなってさみしいということがよくいわれます。しかしそれは間違いだと思うのです。
たとえば平成のこの時代は、暑い夏でも部屋に入れば冷房がきいて涼しく快適という暮らしがありますね。これはたぶん、昔の人にいわせればユートピアです。冬もそうです。どんなに外が吹雪いていても一歩家の中に入れば、暖房のきいた暖かい部屋がある。北国の人は雪掻きの辛さを骨身に染みて知っていますから、彼らにしてみれば、現代は天国です。
同じように四季を通じてさまざまな野菜に出合えることも、昔を考えればパラダイス。それを旬がないと嘆くのは単なるない物ねだり。それこそ感性の欠落した人のいうことだと思います。クーラーを入れて涼風が心地よいと感じたならば、外は夏でもそれは秋の始まり。そんなふうに四季を感じることはいくらでもできるはずです。
で、「どんなところでも四季を感じることはできる。もっと言えば、瞬間瞬間が四季である」というような論につながっていくのだが、確かに季節違いのスイカは「それを食べた瞬間、ボクの中で『旬』」であった。
寒い寒い夜遅く、驚異的なコースの最後の最後に甘〜いスイカにかぶりつく。本当にパラダイスだよなぁと感じ入った次第。
