YOSAKOIソーランから無事帰還
2009年6月15日(月) 20:56:58
YOSAKOIソーラン祭りの札幌から東京へ無事帰還。
というか、朝のヒコーキだったので昼前にはもう東京で仕事していた。次回はもう少し札幌でゆっくりしよう。
ファイナル・パレード審査はとても楽しかった。
大通り公園南コースを12チームが演舞してくるのを、桟敷席に座って「演舞」「感動」「芸術」などの視点から100点満点で採点していく。審査員はボクを含めて8人。審査員前の演舞はチームも相当気合いが入るので感動もまた違う。
パレードの後でステージ審査があるのだが(これは倉本聰さんを審査委員長にした別チーム)、ステージとパレードではかなり採点結果が異なるだろうなぁ。パレード映えする演舞がステージではイマイチだったり、パレードではイマイチと思った演舞がステージではとても良かったりする。同じ演舞なのに見え方や感じられ方がずいぶん違う。チームの個性もあるし、構成の違いもあるだろう。両立が難しいのかも。
合理主義者は祭りをなくす
2009年6月14日(日) 12:38:41
YOSAKOIソーラン祭りのファイナル・パレード審査員をするために一泊で札幌に来ている。
ちなみにこれ、会社の仕事ではなく、個人でオファーされたもの。06年に急にこの祭りと縁ができ、講演行脚などをやったあと、07年から審査員。もう3回目の審査である。
ヒコーキの中で、前にもご紹介した「尾道坂道書店事件簿」を読んでいたら、著者が勤める啓文社(尾道を中心とした書店チェーン)の社長の口癖が紹介されていた。「合理主義者は祭りをなくす」だそうだ。日常の業務における格言だとは思うが、まさに祭りに向かっている道中だったのでいろいろ考えさせられた。
儲けばかりを見て極力無駄を省いていくと、祭りなんて無駄の極地(経済効果が見込める人気祭りは別にして)。そんなことやってるヒマがあったら他にやることあるだろう、である。でも、祭りをやめたその街は、確実に活力を無くし魅力をなくしていく。
このYOSAKOIソーランも一部では無駄とか邪魔とか言われている。たしかに壮大な無駄かもしれない。でもひとりの大学生の発想から生まれ育ったこの祭りは、実際にいろんな人のつながりを産み出し、地域同士の交流に、そして彼らのやり甲斐・生き甲斐に一役かっている。無駄、邪魔、うるさい、とか切り捨てるのは簡単だけど、合理主義は時に視野が狭くなりがち。ご時世的に合理主義が蔓延りそうだけど、省いていいものといけないものを見極めないとね。
叔父のお葬式
2009年6月13日(土) 22:24:40
父方の叔父が亡くなり、昨日はお通夜。今日はお葬式。
叔父は大正生まれ。海軍も経験している。ボクが高校くらいまでは正月に必ず親戚が集まっていたのでよく会っていたが、中心となっていた祖父が亡くなってから集まらなくなっていたので、ここ十数年はほとんどおつきあいがない方だった。でも親戚づきあいはあまりなかったけど、個人的にはすこーしつながっていた。
というのも、叔父は引退してからネットを始め、ボクのサイトを見てメールをくれていたのである。
最初にメールが届いた時には驚愕した。1999年のことですからね。当時としてはかなり進んだ引退者である。その後もたまーにポツリとメールをくれ、ボクはボクで恐縮して返事を書いた。メールってかなりパーソナルなツールなので、なんだか急に身近に感じたものである。ネットって闇な部分もたくさんあるけど、こういう部分においてはかなり温かいコミュニケーション・ツールだ。ハガキでも電話でもこうはいかない。
超頭痛
2009年6月12日(金) 9:11:56
昨日は夕方から頭痛。
普通の頭痛ではなくスーパー頭痛。目の奥を中心にギガンギガンと打ち砕かれる超頭痛。目を開けていられず、携帯メールとかも半眼で打つ状態。こういう偏頭痛は2003年くらいからご無沙汰だったんだけど、ここに来て再発した模様(2003年は会社で頭痛で倒れてERのお世話になった)。
先週倒れてからほぼ一週間、お酒を一切抜き、ウォーキングも適度にこなし、仕事もほどほどにしてきたんだけど、どうも体調万全とはいかないようで。ほんと、メールでご指摘されているように「男の更年期」なのかもしれない。そこに過労とかが重なってこんな状態なのかも。
タイミング良く、昨日は会社の「誕生月健診」があり、朝から血液検査だのCTスキャンだの超音波診断だのバリウム検査だのいろいろ受けてきた。健診ってわかることとわからないことがあるけれど、少なくとも悪いところは数値に表れるはず。結果待ちというところ。
映画「グラン・トリノ」
2009年6月11日(木) 7:59:17
映画「グラン・トリノ」をレイトショウでようやく観た。
いつ公開が終わっちゃうか冷や冷やしていたので、観られて良かった。
リアルタイムでイーストウッドが新作を公開してくれる幸せって、たとえばリアルタイムでビリー・ワイルダーやフランク・キャプラが新作を公開してくれるみたいなのと同じくらい奇跡的なこと(もちろん作風は全く違うけど)。忙しいとか自分に言い訳している場合じゃないよなぁ…。
というか、いま書いてて思ったけど、この映画、ちょっとフランク・キャプラっぽかったかもしれない。もちろん作風は全然違うし、キャプラっぽい正統ハッピーエンドではない。でも、それは描き方の違いで、実は主題は近いかも。キャプラが表ならイーストウッドは裏。キャプラが古き良き20世紀のアメリカならイーストウッドは腐りかけている21世紀のアメリカ。
この映画を往年の西部劇と対比させる評論が多いし、もちろんそういう面はあると思うけど、キャプラと対比させると逆にこの映画の違う側面が明確に浮かび上がってくる気がちょっとした。
