マスメディアが作り出す「共有知」は、個の発信の共感を加速する
2012年3月27日(火) 12:15:44
昨日書いた「マスメディアからマンメディアへ」というのは、情報伝播のプラットフォームが移行するという話で、マスメディアが衰退する、という意味ではないので念のため。
ネット上にはマスメディア衰退論が大好きな方が多いのだけど(そしてマスメディアの現状を嘆く声や、変化を求めるその気持ちもよくわかるのだけど)、マスメディアからマンメディアへ情報プラットフォームが移るとき、マスメディアは別の意味で必要不可欠な存在になるんじゃないかな。
なぜかというと、マスメディアが作り出す「共有知」は、個の発信の「共感を加速する」から。
「個」と「個」のつながりでできているソーシャルメディア上で「個の共感」が流通貨幣なのは前回の「マスメディアからマンメディアへ。そんな時代、個の発信こそがキーポイントに」で書いた。
で、「共感」は、他人である相手の中に「自分と同じところ」を探しに行くことで起こる、というのは前々回の「人はわかりあえっこないからこそ、たまたまわかりあえたときに強い『共感』が起こる」で書いた。
「自分と同じところ」は、自分の人生の経験から判断して「あー、同じだー。わかるわかる!」と見つけるわけで、そのとき「共通の体験」を持っていると、その感覚はより強くなる。
ギリシャ時代の哲学者の中に自分と同じところを見つける場合もある。アーティストの超個人的な恋の唄の中に自分と同じところを見つける場合もある。でも、相手と「共通の体験」を持っている方が、より共感は強く、わかりやすく起こることになる。
たとえば、「女子サッカーワールドカップの授賞式で、金色の紙吹雪の前に青いユニフォーム姿で立つ彼女たちの光景は、まさにナウシカの『その者、青き衣を着て金色の野に降り立つべし』と同じだったよね!」と誰かが思ったとして(例が古い!)、この想いに共感するためには、あの授賞式の光景を「共有」している必要がある。
まぁあの光景を見ていなくても、わかりやすい説明があれば共感はできるとは思うけど、でも、あの光景を見て「共有」していた人の方が、より強く、すばやく共感できる。
そういう「共有知」を、広く伝える役割を持つマスメディアは、作ることができる。
ネット上での「個の発信」は、「個」と「個」のつながりを通じて世の中に広がっていくが、バラバラな話題によるバラバラな共感だ。でもそこに共有知があると「共感の塊」ができる。それを生み出せるのは、いまのところ圧倒的にマスメディアだと思う。
もちろん、このプラットフォーム上での主導権はマスメディア側にはないのは前回書いた通り。でも、マスメディアが作り出す共有知はマンメディア上での共感を広める大きなきっかけになる。
広告もいっしょだ。
「個」から発信された情報は、マス広告が作り出した「共有知」に加速されてマンメディア上で広く伝播していく。
つまり、情報という水をマンメディアという水路に大量かつ迅速に流すためにマス広告を使用するという発想が必要になる。そのためのコミュニケーション・デザインが必要だし、情報の起点の作り方も含めて、その辺がこれからのコミュニケーション・プランニングのポイントになるんじゃないかな。
ちなみに、マスメディアは共有知を作りだせるが、それは極めて「RAW DATA的(生データ的。一次情報的)」なものだと思う。政治や事件や出来事やスポーツなどをありのままのカタチで視聴者や読者に提供することが「共有知」につながる。
逆に、ジャーナリズムという「独自の解釈」が入ったものは、共有知にはなりにくい。
それはメディアという「個」の発信であって、生活者個人個人の発信と対等だ。だからそれは「共有知」にはなりにくいし、いままでのような世論操作的なものもどんどん難しくなると思う。
で、それが「メディア社という組織によるポジション・トーク」であるなら、個の発信と対等ですらない。共感も獲得できないし、共有知も作れない、ちょっと恥ずかしいマス発信になる。
その辺がいまのマスメディアの問題点だと思うけど、それはまた別の機会に。
