内田樹教授の最終講義を聴講してきた(2)

2011年1月24日(月) 9:06:39

内田樹最終講義の話の続きである(前回はこちら)。

最終講義の話がご本人の手によって一部アップされてますね(この記事)。しかも講義内容をツイートでまとめた労作も出た(こちら)。なので、内容を追うというよりはボクなりの感想を交えて備忘録的に書いてみたい。

15時開始の45分くらい前に着き、講堂の席に着いた。前から9列目。いい席に座れた。
ここは礼拝堂も兼ねているのか、教会みたいな狭い椅子。ボクと松井さんと、ちょっと遅れてきた細野豪志さん(首相補佐官)という「座高が高い3人」が並んで座ったので後ろの人には悪かったなぁと思う。でも足がつっかえて深く座れなかったの。すまんす。

ヴォーリズ設計のこの美しい講堂は800人ほど入るという。それが満席立ち見ありであった。
卒業生やゼミ生はもちろん、東京からも有名な評論家が多数来ていた。そのお供の編集者たちも多数。記帳しつつふらふらしていたら当の内田先生が来られ、会場で昔のゼミ生とかと話されていた。ボクも軽くご挨拶させていただいた。「あ、ご飯をご一緒しましたね」と覚えてくれていた。光栄至極。

講義自体は15時から始まって1時間15分くらいだっただろうか。
普段から「その講演、高等漫談の如し」と言われているだけあり、メリハリある実に面白い講義だった。爆笑もガンガンとっていく一方、みんなが身を乗り出して一言も聞き逃すまいと清聴する場面もたくさん。いい本を読むときそうなるように頭がグルグル働く。強烈なインスパイア。知的高揚とはこういうことをいうのだな。

さてその内容。

まず、21年間勤めた大学への感謝の弁から始まった。
普通、この辺の話は退屈なはずであるが、この感謝の切り口が実に個人的で面白く、爆笑をガツンガツンと取っていく。さすがだなぁ。そしてこの愛すべき大学が95年に見舞われた阪神大震災の話へ。被災の翌日、大学の建物が巨大な生き物に見え、それが傷つき血を流しているように感じたこと。そこから設計者であるヴォーリズの「学校設計の思想」に踏み込んでいく。

ヴォーリズの設計のすばらしい部分をふたつにまとめて語ってくれた。
ひとつはその優れた音声設計。小さな声でも後ろまでしっかり聞こえる講堂の話。実際、最終講義の冒頭5分くらいはマイクのスイッチを入れ忘れていたようだが、まったく支障なく聞き取れた。そのような音声設計がいかに大切かつ「学問それ自体や話のクリエイティビティに影響を与えるか」。これは目鱗の話であった。部屋(教室)における声の響き。照明なんかはよく論じられるが、確かに音声(音響)設計は語られることが少ない。

ヴォーリズの設計の優れた部分のふたつめは「暗い」ということ。
ヴォーリズの建物は内部が暗い。だから対照的に外が明るく見える。建物内から外に出た瞬間にその明るさに驚愕する。それは「学問の比喩になっている」という話。

学校の「建築物としての構造」は「学びの構造」の比喩になっていないといけない。
これは内田ブログでも何度か語られてきたことである。つまり、「暗い」=学問的に未熟なこと。「明るい」=学問的な発見や到達。暗いところから明るいところへ飛び出していく感覚を身体的に持たせる建築こそ学校にふさわしい、というお話である。

ここから「学びの本質」を語っていく。

まず、この大学の理学館には「隠し三階」があり「隠し屋上」があり、この講堂の裏には「隠しトイレ」もある、という話。

これら「隠された部屋」はすべて「思いがけない眺望と思いがけない出口」を持っているという。
好奇心に駆られて、誰も通らぬ暗い廊下を抜け、謎の扉のドアノブを回し、暗い階段を上り、ようやく辿り着いた人だけが見られる報奨がちゃんと用意されているということ。「実は学びの価値とはそれである」と。

自分でドアノブを回したものだけが得られる報奨。

それを構造として持っているものが学校である、という話も素晴らしいが、「わずかなシグナルに反応するものだけに、自分の身体を使ってドアノブを回したものだけに、個人的なメッセージというカタチで報奨が与えられる」ということが今の自分にやけに響いた。

そしてこんな感じで続く。
「(学校に自分の身体を入れ込まないと隠し扉すら見つからないように)テクストの意味というものは、自分自身の実存をそこにねじこんでいくことによって得られるものである」

テクストに自分の身体をねじ込んで初めて隠し扉が見つかり、そこを勇気を持って進んだものだけが、その向こうに「他の人は見られない見晴らし」という報奨をもらえる。

あぁ「学び」とはこのことか。
ルールがあり、規律があり、作法があるのは「身体をねじこむ必要がある」からなのだな。

昨今、学生がお客様化し、「学び」という言葉に「自由に」というニュアンスが入ってしまった気がするが、それではダメなのだ。不自由でも狭っくるしくても、きちんと身体をねじこまないといけない。それをしたものだけに「隠された部屋へのドアノブ」が与えられる。

内田ブログの最近の記事に「エマニュエル・レヴィナスによる鎮魂について」というのがあるのだが、これと合わせていろんなことがすとんと腹落ちした。「懇請」とはこの動機のことか…。まぁこのレベルの腹落ちはたいてい勘違いであるから、勘違いの可能性は高いのだけど。

読者に課せられているのは、他のどのような読者もそこから読み出さなかったような読みを「記号から引き剥がす」ことである。そのために、読者はテクストに没入すると同時に「都市に、街路に、他の人々に-同じだけの注意を向ける」ことを求められる。

ブログにあるこの一節は、最終講義と合わせて読むととてもよくわかる。
そしてこの考えは、講義終盤の「存在しないものをどう捉えるか」「愛神愛隣とはなにか」に通じていく。なるほどなぁ。全部がつながっている素晴らしい講義だなぁ…。

というか、ごめんなさい、そろそろ仕事に行かないといけない(笑)
連載にするつもりはこれっぽっちもなかったが、ここから先はまた明日書こうと思う。

佐藤尚之(さとなお)

佐藤尚之

佐藤尚之(さとなお)

コミュニケーション・ディレクター

(株)ツナグ代表。(株)4th代表。
復興庁復興推進参与。一般社団法人「助けあいジャパン」代表理事。
大阪芸術大学客員教授。やってみなはれ佐治敬三賞審査員。
花火師。

1961年東京生まれ。1985年(株)電通入社。コピーライター、CMプランナー、ウェブ・ディレクターを経て、コミュニケーション・デザイナーとしてキャンペーン全体を構築する仕事に従事。2011年に独立し(株)ツナグ設立。

現在は広告コミュニケーションの仕事の他に、「さとなおオープンラボ」や「さとなおリレー塾」「4th(コミュニティ)」などを主宰。講演は年100本ペース。
「スラムダンク一億冊感謝キャンペーン」でのJIAAグランプリなど受賞多数。

本名での著書に「明日の広告」(アスキー新書)、「明日のコミュニケーション」(アスキー新書)、「明日のプランニング」(講談社現代新書)。最新刊は「ファンベース」(ちくま新書)。

“さとなお”の名前で「うまひゃひゃさぬきうどん」(コスモの本、光文社文庫)、「胃袋で感じた沖縄」(コスモの本)、「沖縄やぎ地獄」(角川文庫)、「さとなおの自腹で満足」(コスモの本)、「人生ピロピロ」(角川文庫)、「沖縄上手な旅ごはん」(文藝春秋)、「極楽おいしい二泊三日」(文藝春秋)、「ジバラン」(日経BP社)などの著書がある。

東京出身。東京大森在住。横浜(保土ケ谷)、苦楽園・夙川・芦屋などにも住む。
仕事・講演・執筆などのお問い合わせは、satonao310@gmail.com まで。

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