シルヴィ・ギエム & アクラム・カーン「聖なる怪物たち」
2009年12月21日(月) 7:30:23
昨日もちょっと書いたが、「シルヴィ・ギエム&アクラム・カーン・カンパニー『聖なる怪物たち』」を観てきた。@東京文化会館
シルヴィ・ギエムを観るのは何回目かな。たぶん7回目くらい。もう観る度に口あんぐりなのだけど、今回はアクラム・カーンの舞踊とその演出も含めて、超口あんぐりだった。
15時から16時すぎまで、1時間とちょっとの舞台。
短いけど濃密。濃厚。隅々まで自由で新しい。ギエムとカーンの「相違」と「問い」と「共感」。そしてそれらからの「自由」。
この舞台、どう説明すればいいのかな。
お互いに違う出自のダンサーなんだけど(ギエムはバレエ出身。カーンはインド舞踊 "カタック" 出身)、それが自由自在に合わさって、まったく新しい舞台になっている。背景は抽象的でシンプル。そこにシンプルな練習着を着たふたり。そして5人の様々な人種の音楽奏者のみ。ただ、ダンスと音楽だけでなく、独白と会話も大きな要素。そしてそのどれにもまったく囚われず、結論もオチもつけず、ひたすら「自由」に表現する。とはいえストーリーはちゃんとあり、不条理劇でもハプニング劇でもない。なんというか「あくまで自由に『自由』をきちんと描いた」感じ。もっと説明的に言うと「お互いが自由になる過程」を「自由な方法論」で描いている感じ。
ダンスからも、悩みからも、小さいときの葛藤からも、髪のないクリシュナからも、言葉からも、肉体からも……、すべてから自由になる過程。それをダンスや音楽や独白などが唐突に「自由に」入る構成で、ものすごく自由に描いている。そしてギエムもカーンも、自分本来のダンスから自由になって踊りまくる。
だからだろう、この舞台には相対するものがたくさん出てくる。
ダンス(バレエとカタック)。宗教(キリスト教とイスラム教)。言葉(イタリア語のエピソード)。音楽(西洋と東洋)。性(男と女)。肌(白と黒と黄)。髪(長い・ハゲ)。背(高い・低い)。
独白でもダンスでもそれらが語られる。それらが正反対な姿を見せつつ、問い会うことで調和を見いだし、その挙げ句ぶつかりあい、またわかりあい、エマーヴェイユ(驚くこと)を共有し、歓喜し、また不調和を見せつつ終わる……。その過程と自由さが得難いものだった。
だいたいのストーリーはサイトのこのページの下の方の独白部分を読むとわかる(ダンス動画も少しある)。いやゴメン、読んでもわからないかも。そこに書いてあるような独白を実際に舞台上でカーンとギエムがアドリブをはさみながら語り、その間にダンスや音楽が仕込まれている。
「自由」になるために、このふたりが出会って一緒にステージを作り上げることはきっと必然だったんだな。
バレエやカタックに囚われていた精神が、ふっと自由に飛翔する過程と瞬間をしっかり見せてもらった感じ。伝わるなら何でもありなんだ、という「ダンス自体からの自由」も見せてもらった。
題名の「聖なる怪物たち」(Sacred Monsters)には違和感があり、いろいろ深読みしてしまったが、ボクの中では、怪物たちは合わさる前のそれぞれの要素たちのこと。囚われていた聖なる怪物たちが解き放たれて自由になる、みたいな解釈をしてしまったが、たぶん日本人にはわかりにくい別の意味合いが題名にはありそうな気がする。
会場を出ながら、国木田独歩の「驚きたいんです」という言葉を思い出していた。
ギエムが最後に語る「emerveille(エマーヴェイユ)」ってそういうことなんだろうと思う。驚き続けるためには開放された精神と肉体が必要なんだろうと思う。さて自分は開放されているか。自由になれているか。要はそういうこと。
