シーシュポス
2008年10月 9日(木) 12:51:10
ターミナルケアに従事する医師と、ある宴席で隣り合い、少し話を聞いた。
「ボクたちの仕事のゴールは、相手の死なんです」と淡々と話される。本来、相手を治すのが仕事なのに、治さずに見送ることが仕事となる矛盾は、最初彼を悩ませたという。相手の死がゴール。いったい達成感はどこにあるのだろうか。
いまではその辺は吹っ切れたとおっしゃっていたが、なんかその人がシーシュポスに見えた。
もちろん、その仕事が徒労に近いのだと言いたいわけではない。患者の笑顔、家族の安心はなによりの糧だろう。でも、なんというか、自分が患者のために積み重ねた時間が、患者の死とともに無に帰す感覚が、どこか、苦労して岩を山頂まで押し上げたあげく、岩が転がり落ちてはじめに戻る、という「シーシュポスの神話」の不条理さを思い起こさせる。
自分の努力や苦労、喜びや悲しみ、そして毎日の営みが、相手の記憶が消滅すると同時に消えてなくなってしまう感じは、老夫婦の片一方が亡くなったときの、残された人の絶望によく似ている気がする。
残された人で自殺する人がいるが、あれは愛した人を亡くした悲しみというより、相手の中に長く長く積み重なった自分の時間そのものの消滅を絶望するのではないだろうか。
人生は、肉体の死のあと、自分のことを覚えている人がひとりもいなくなった時点で本当の終わりを迎える。
次々亡くなっていく患者たちを見送ることは、彼らに記憶された自分の時間の消滅を見届け続けることでもある。それにボクは耐えられるのかどうか。ちょっと頭の中でシミュレーションしてみただけで、したたかに悪酔いしてしまった昨日の夜更け。
