独座観念
2008年8月13日(水) 7:38:26
NHKの「篤姫」は演出がとてもうまいドラマだが、先週の井伊直弼と天璋院の茶の場面は凄みがあった。
井伊直弼役の中村梅雀、迫真の演技。「一期一会」はもともと井伊直弼の言葉であり、その本人の一期一会の茶を演技するわけで、かなりの覚悟をもって臨んだと思われる。演出もまた同じ。狭い空間を大きく感じさせ、濁りのない澄み切った井伊の心と茶の味を印象的に描き、ふたりの精神の交流を静かに表現した。近来稀に見る名場面だったと思う。
今日のこの一期一会が再び帰らぬ事を観念す。
その場面の〆のナレーションがこれ。
この「観念」という美しい言葉に心を打たれた。
確かもともとは「独座観念」という言葉だったと思って調べたら、井伊直弼の原文に出会った。「茶の湯一会集」の「独座観念」という一文である。
主客とも餘情残心を催し、退出の挨拶終れば、客も、露地を出るに高声に咄さず、静にあと見かへり出行ば、亭主は猶更のこと、客の見へざるまでも見送る也。扨(さて)、中潜り・猿戸、その外、戸障子など、早々〆立などいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決て、客の帰路見えずとも、取かた付、急ぐべからず。いかにも心静に茶席に立もどり、此時、にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄も有べきに、もはや何方まで可被参哉(まいらるべきや)、今日、一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是、一会極意の習なり。此時、寂莫として、打語ふものとては、釜一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいたりがたき境界なり。現代語に超訳すると、こういう感じ。
茶席が終わり、主客ともに名残惜しく別れの挨拶を済ませ、客が露地にでたならば、もう声高に話さず、亭主は客が見えなくなるまで静かに見送るものである。すぐ中潜り、猿戸、その外戸障子などを閉めてしまうのはよくない。今日の饗応が台無しになってしまう。客が帰って行く姿が見えなくなっても、片づけを急いではならない。心静かに茶席に戻り、炉の前に独り座って、「もうちょっと話がしたかったな、今頃はどの辺まで帰られただろう」などと思いながら、今日の一期一会はもう二度と再び巡り来ぬことを観念する。独りでお茶を点てて一服してもよい。これこそ一会の極意である。この時、打語らうもの、釜一口のみ。これは辿り着くのが実に難しい茶の湯の境地である。余情残心。一期一会。そして、独座観念。
今日、一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念す。
美しい言葉だ。でも、いまの自分の毎日からはあまりに遠い言葉でもある。せめて一時、独座観念せよ。
