どんな髭剃りにも哲学はある
2006年6月16日(金) 9:21:13
昨晩は早く帰って20時すぎにベッドに入り、「1973年のピンボール」などを再読しつつぐったりと寝てしまった。あぁよく寝た。少し回復。
やはり仕事の量とトラブルで疲れたのかな。休めるはずの土日も、先々週は沖縄、先週は札幌出張でそーとー動き回っていたし(沖縄はプライベートな休みだったけど)。
村上春樹「1973年のピンボール」はとっても久しぶりの再読だったが、驚いた、ジェイズ・バーのジェイって45歳って設定だったんだ。今のオレかよ。そうか、そういう歳か、と、ベッド上の天井を睨む。
ジェイのセリフ。
あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。
どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ・・・
これはもしかしたら森鷗外の「カズイスチカ」という短編のことを指しているのかも(もしくは熊沢蕃山)。
短いけど森鴎外の人生観を表していると言われる短編。なんで覚えているかというと、浪人中、駿台の藤田という現国の先生がこの短編とこのくだりを強調して語っていたからだ。森鷗外を知りたければこの短編のこのくだりを読め、と。座右にあるので引用してみる。
そのうち、熊沢蕃山の書いたものを読んでいると、志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行うのであるという意味の事が書いてあった。花房はそれを見て、父の平生を考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場の医者たるに安んじている父のresignationの態度が、有道者の面目に近いということが、朧気ながら見えて来た。そしてその時から遽に父を尊敬する念を生じた。
「髭剃り」と「顔を洗ったり髪を梳ったり」は少し違うし、「学ぶ、哲学する」と「道を行う」も多少ニュアンスが違うが、ほぼ同じ内容だと思う。ジェイがイイタイコトはまさにこういうことだ。「カズイスチカ」のこの引用の直前にも核心的なことが書かれている(長いので引用はしない)。
どんな髭剃りにも哲学はある。
平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行うのである。
45歳とはそういうことがきっちり胃の腑に落ちていてしかるべき歳なのだ。
※追記:メールにて、この「どんな髭剃りにも哲学はある」の出典はサマセット・モームだと教えていただきました。ありがとうございました。
