終戦60年。被害者なのか。加害者なのか。
2005年8月15日(月) 6:33:03
60年目の終戦記念日。終戦というか敗戦記念日かな。
国民の中で、戦争体験は確実に風化していて、遠い日の淡く悲しい出来事みたいになりつつある。
だからだろう、終戦・敗戦どちらの言葉を使っても、どこか「被害者」っぽいニュアンスが漂う。絶対的に悪い戦争に庶民まで巻き込まれて被害を受けたイメージ。ちょっと自己憐憫な感覚。あの悲惨を二度と繰り返すまい、という戦争放棄の姿勢にもどこか被害者っぽい匂いがする。広島長崎の平和への訴えがいまひとつ世界に通じないのも、そこに被害者ニュアンスが漂っているからではないか。
でも、中国から見ると「抗日戦争勝利60年」であり、韓国から見ると「日帝支配解放60年」なのだ。アメリカから見ても「対ファシズム勝利60年」なのである。今日はそういう日だ。自虐史観的に言っているのではない。客観的に外から見るとそういう日なのである。
日本は確実に「加害者」だった。あの戦争の意義・解釈はいろいろあるし、勝利者側の論理のみがまかり通るジレンマもあるが、加害者の面が確実に存在することを忘れてこの日を迎えるのは欺瞞というものだ。世界に冠たる平和憲法!と胸を張っても、加害者が何言ってる!と思う人たちがまだ世界にはたくさんいることを少しは考えないといけない。
謝罪が足りないイヤ日本はもう謝った、とか、靖国参拝がどうだこうだ、とか、そんな論に結びつけたいわけでは決してない。政治は政治でいろんな押し引きがあるものだ。
ただ、我々ひとりひとりの心がちょっと被害者方面に傾いてきていないか、加害者であった事実に目を背けがちではないか、と危惧するだけである。
平和は自分ひとりでは達成できない。相手があるものだからである。平和を願う今日この日。相手側に立ってめいっぱいの想像力を働かせてみるのも、家にいながらして出来る平和への大事な行動なのではないか。
