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「八月の鯨」

八月の鯨

The Whales of August

Lindsay Anderson
Bette Davis, Lillian Gish, Vincent Price, Ann Sothern, Harry Carey Jr., Frank Grimes
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1987年製作
90 minutes

監督・・・・リンゼイ・アンダーソン
製作総指揮・シップ・ゴードン
制作・・・・キャロライン・ファイファー
マイク・カプラン
脚本・・・・デヴィッド・ベリー
撮影・・・・マイク・ファッシュ
編集・・・・ネーナ・デーンビック
マイケル・チャンドラー
音楽・・・・アラン・プライス
キャスト・・リリアン・ギッシュ
ベティ・デイヴィス
ヴィンセント・プライス
アン・サザーン
ハリー・ケリー・ジュニア


この前、京都で会社の先輩(女性)と鍋を食べながら「老後」の話になった。

年取ったらどんな感じだろう? 老後の生きがいって本当にあるのかな? 気力やカラダが衰えたら何を楽しみに生きていくのだろう? 食欲とかが落ちるのも辛いよね。 映画とか本とかに楽しみを見いだすのだろうか? でも新作とかは見なく(読まなく)なるだろうな、好奇心も衰えるしねぇ。 やっぱり土いじりとかに戻るのかなぁ? でも我々の世代って土にちゃんと回帰できるのだろうか? 老後も都会のマンションに住んでいたら土も触れないし。 テレビとかぼんやり見て生きるのかな? そんな生活で人生を〆るためにこうして働いているんだっけ? なんか違うよねー。 うん、なんか違う……。

いろいろいろいろ話しているうちに、共通の感覚として浮かび上がってきたのは「飽きたよねー」という実感である。

飽きた。いろんなことに。
40歳前にして、なんだかすでに、飽きた。
なんというか「得られる楽しさの限界がわかった」みたいな感じ。
今後はもっともっと飽きていくだろう。
70歳とかになったら、どうしようもなく飽きているだろう。

不遜だというなかれ。贅沢だというなかれ。
たぶんこの「飽きた」「飽きそう」という感覚は、近代化という目標が終わった日本に住み、超情報社会の溢れかえる情報の嵐に日々に晒されている30代・40代の、ある種共通認識なのではないだろうか。

国家的・民族的目標を失い、価値観を失い、生きていく方向が見えてこない。
生きる意味も価値も、ぼんやりしてしまっている。
あらゆる情報が生活のあちこちに氾濫し、昔は秘密や希望のベールに包まれていたいろんな事柄もすべて裏まで暴かれてしまった。たとえば、夢を売る職業にいる人々の普通の顔や裏の醜い顔なんて、昔は見えなかった。だから偶像化できた。いまは裏が見え見え。だから夢まで汚れてしまう。

そう。夢が夢でなくなった。
30代・40代ですら、なかなか夢を持ち得ないこの時代。
老人が、社会的引退者が、なにか夢を持ち得るのだろうか?
夢を持たない老後の生活ってどんななのだろうか?
飽きないのだろうか?
そして、若くして飽きている我々の後半生はどうなるのだろうか……?




京都の町屋を改造した蕎麦屋で、そんなことをぼんやり考えつつ、ふとこの映画が観たくなった。

まだ若く、何事にも飽きることを知らなかった頃に観た、この、「八月の鯨」・・・




この映画には老人しか出てこない(正確に言えば冒頭部に少し若いときの彼女らが出てくる)。
主演は当時92才のリリアン・ギッシュと82才のベティ・デイヴィス。往年の超大スターの共演である。

夏になると鯨がやってくる海辺の、小さな家に暮らす老姉妹の、たった1日半の物語。
なにも起こらず、なにも盛り上がらない。いろいろ確執はあるものの、静かに日々を送る二人の物語。
若い頃、毎夏楽しみにしていた鯨の来訪。
今年も鯨はやってくるのだろうか・・・


なんにも起こらない日常。
それはまさに「飽きそう」な予感でいっぱいである。


でも。

久々に見直した「八月の鯨」は、ボクにとっては思っていたよりずっと希望の匂いのする映画だったのである。




頑固でワガママで厭世的な盲目の姉(ベティ・デイヴィス)。
それを世話する妹(リリアン・ギッシュ)は、優しく誠実で、足るを知っている。

その若々しい笑顔。家を売らず、人生を〆ようとしない強い姿勢。今年も8月になると必ず鯨は来るんだという確信。それを眺めるための大きな窓をつけようとする積極。

最後には姉も影響され、窓をつけよう、と言い出す。
そしてふたりして、海辺へ鯨を見に歩いていくのだ。




いろんな解釈の仕方があるだろう。
でも「飽きた」感にとらわれていたボクは、ある種の意識の転換をこの映画のテーマとして受け取った。

それは(青臭い書き方でお恥ずかしいが)、どうせ明日死んじゃうかもしれないからなにもやらない、というのではなくて、明日死んじゃうかもしれないから今日をしっかり生きよう、みたいな意識の転換である。


当然じゃないの、そんなの。と言われるかもしれない。
でも、「飽きた」感にとらわれていたボクにとってはある意味とても新鮮なのであった。


飽きたとか飽きそうとか考えていたボクは「頑固でワガママで厭世的な盲目の姉」と一緒じゃん!
明日死んじゃうとしたら、飽きているヒマなどないはずじゃん!




ボクたちは、1秒1秒、死につつある。
この世で確かなことなどそんなにないけど、このことだけは確かだ。こうしてコレを書いている今も、ボクは確実に死に向かっている。死につつある。I am dying.  でもそのことは普段は意識の陰に隠れてまるで見えない。
見えないどころか、なかなか死なないと若者はみんな思っている。例外は老人で、老人だけ極端に死に近い存在だと若者はみんな考えている。

でもよく考えたら、この瞬間瞬間に限って言えば、死への近さは老人も若者もたいして変わらないのである。

次の瞬間、大地震が来て死んでしまうかもしれない、車が突っ込んできて死んでしまうかもしれない、などという危険と若者だって隣り合わせに生きているのだ。
次の瞬間は、なにが起こるかわからないのである。

老人以外は「明日死んでしまうかもしれない」「いまこの季節を過ごせるのはこれが最後かもしれない」みたいな意識はまるでない。
また春が来て夏が来て、いつものように秋が来て年が暮れると思っている。

でも、死への近さは若いのも年寄りも同じくらい、なのである。あなたも次の季節を迎えられないかもしれないのだ。




(まだ老人でない)ボクたちは、そのことを忘れている。忘れたふりをしている。

老人達は、そのことを忘れていない。
彼らは「死ぬ」という可能性を常に身に抱いている。
それだけ生を愛おしく感じているのである。




年取ったらどんな感じだろう? 老後の生きがいって本当にあるのかな? 気力やカラダが衰えたら何を楽しみに生きていくのだろう?・・・

ボクはそんなことを思ってきた。
でもどうやらそれは、かなり意識違いのようだ。


年を取ったら生が余計に愛おしくなる。老後の生きがいは「生きること」なのだ。気力やカラダが衰えたら「今日を生きること」が楽しみになるのだ。


死ぬまで長い時間が存在する、と考えるから、飽きる。飽きた気になる。
明日死ぬかも知れないと考えれば、何事にも飽きない。
もう来年の鯨は見られないかもしれないとなったら、今年の鯨は非常なる楽しみなのである。






老後(この言葉はイヤだなぁ)は、子供の時と同じくらい飽きない毎日なのかもしれない、と、いまはちょっと思い始めている。
そして、「飽きた」理由を時代のせいにしたり情報社会のせいにしたりしていた自分をいま深く恥じているのである。




八月にやってくる鯨をこれからも毎年毎年見られるとは限らない。
だからこそ、今年の鯨を楽しみに生きるのだ。





p.s.1
1980年代でしたっけ? キム・カーンズが「ベティ・デイヴィスの瞳」を歌って大ヒットさせたことがありましたよね。歌になるくらい瞳が印象的なベティ・デイヴィスが盲目の老人役というところがなんとも凄みを感じました。往事のベティ・デイヴィスの美しさからは想像できない老人ぶりですけど、、、よく出たよなぁ。

p.s.2
ベティ・デイヴィスは1989年に、リリアン・ギッシュは1993年に亡くなりました。それにしても当時92歳のリリアン・ギッシュの瑞々しさは印象的でした。リリアン・ギッシュはD.W.グリフィスの「イントレランス」しか他に見たことないけど、昔の写真とか見ると、それはもう大美人。

p.s.3
DVDは日本では売ってないようですね(2006年現在)。ビデオはかろうじてあるようです。

2000年03月01日(水) 12:37:08・リンク用URL

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