「時計じかけのオレンジ」
A Clockwork Orange
Stanley Kubrick
Malcolm McDowell, Patrick Magee, Michael Bates, Warren Clarke, John Clive, Adrienne Corri
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1971年製作
137 minutes
| 監督・・・・ | スタンリー・キューブリック |
|---|---|
| 製作総指揮・ | マックス・L・ラーブ サイ・リトビノフ |
| 製作・・・・ | スタンリー・キューブリック |
| 原作・・・・ | アンソニー・バージェス |
| 脚本・・・・ | スタンリー・キューブリック |
| 撮影・・・・ | ジョン・オルコット |
| 美術・・・・ | ジョン・バリー |
| 編集・・・・ | ビル・バトラー |
| 音楽演奏・・ | ウォルター・カルロスほか |
| キャスト・・ | マルコム・マクドウェル パトリック・マギー マイケル・ベーツ ミリアム・カーリン ポール・ファレル |
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アイデンティティって、なんだろう・・・。
中学三年のころだったか。
ボクは名画座でこの映画を観て、はじめてアイデンティティについて真剣に考え始めた記憶があります。
オクテ、だったのかな。
カミュの「異邦人」「シーシュポスの神話」に凝ったりして、社会と個人の不条理なんかにはちょっと興味を示していたけど、個そのものについてはほとんど考えていなかった気がします。
アイデンティティ・・・
簡単に言えば「彼を彼たらしめているもの」、でしょうか。
当時はまだアイデンティティという言葉自体はあまり使われていなかったかもしれません。いまから25年ほど前。1975年頃。レゾン・デートル(存在理由)という言葉の方が(ちょっと意味は違うにしても)ずっとポピュラーだったと思います。
まぁどちらの言葉にせよ、中学生当時のボクにはまだ無縁でした。個は限りなく「社会と同一」だった。つまり「公」と違う「個」という存在が、よくわからなかった。「個」は「公」の一部であり、「個」は「公」のためにある、って疑いもせず考えていた気がします。要は「社会とは別にある個人」という概念がよく理解できていなかったですね。
小学校は日教組による班別共同生活。中学校は男子受験校。そういう社会環境しか知らなかったボクは、「個を殺す教育」のまっただ中にいたせいもあってか、とにかくそれを疑わなかったんです。
つまりはもう、この映画のタイトルそのまんまな存在。
当時のボクは、「時計じかけのオレンジ」=「機械じかけの有機体」=「社会という機械に組み込まれた人間」そのものだったわけです。
そういう意味でもとにかくショックでしたね、この映画。
主人公アレックスにとっては「暴力行為こそが自分本来のアイデンティティ」なんだけど、それがボクという「社会という機械に組み込まれた人間」には大ショックだった。反社会的な個を肯定することがよくわからなかった。そうか、これはキューブリック監督の悪ふざけなんだな、ジョークだな、SFなんだな、と理解してました。
社会的に治療されてしまったアレックスが、昔犯罪を犯した人に報復を受けながら、立派に更生していく物語かと途中まで観ながら信じていたくらいで・・・。
♪ あの頃キミは 若かった〜
それから何年後かに「カッコーの巣の上で」で同じような主題が取り上げられたけど、「カッコーの巣の上で」はお説教的すぎて全くインパクトなかったなぁ。それに比べて「時計じかけのオレンジ」はブラック・ユーモアやポップ感覚というオブラートに上手に包んでいる分、高級だよね。
キューブリック監督は1929年生まれだからこの映画当時42歳。
「2001年宇宙の旅」の次作として作ったこの映画、ボクはリアルタイムでは観てないんだけど、公開当時は超問題作として話題を集めたようですね。 ポップでシュールな美的センス。 「博士の異常な愛情」や「2001年宇宙の旅」で発揮されていた音楽センスも健在でした。
ジーン・ケリーはよくオーケーしたよな、とみんなに不思議がられている「雨に唄えば」の使い方(エンディングタイトルはもろ彼の歌声)、ウォルター・カルロスがシンセで演奏したベートーベンの第九交響曲。これらはこの映画の核と言ってもいいような重要要素です。
両方とも「喜びの歌」。
これが反社会的な場面(つまりは主人公のアイデンティティ発揮の場面)で流れるその衝撃。知的犯罪者キューブリックの面目躍如と言ったところですよね。
---余談。「雨に唄えば」は当初脚本には書いてなかったとか。暴力シーンのリハーサルで監督に「君の好きな歌を歌いながら暴力しろ」と言われたマルコム・マクドウェルが、歌詞を全部知っている唯一の歌としてこの歌を即興で歌ったらしい。映画の出来まで左右するような、世紀の即興でしたな、マクドウェル君。
でもさすがのキューブリックも1971年時点で予想するとなるとここどまりなのかな、という近未来の描き方。ただ、筋に関係のない細部まですべて意味を持っているような気にさせる凝り方はさすがです。
「現金に体を張れ」「突撃」「スパルタカス」「ロリータ」「博士の異常な愛情」「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」「バリー・リンドン」「シャイニング」「フルメタルジャケット」・・・(このあと「Eyes Wide Shut」「AI」と撮っているけど未公開---追記:「Eyes Wide Shut」は1999年に公開)
名作だか駄作だかわからないのが多いけど、「博士の異常な愛情」や「シャイニング」は好きですね。「2001年宇宙の旅」は誰もが名作と押す映画だけど、ちょっとキザで肩肘張っているところが嫌い。がんばっちゃってません? いい場面はいっぱいあるんだけど。
・・・「時計じかけのオレンジ」はね、もちろん好きなんだけど、じゃぁしょっちゅう観直したいか、と言われるとそうでもないんです。寺山修司の映画みたく、しばらくいらない、って感じになる。
ただ、「アイデンティティ」って言葉を聞くとこの映画を思い出すくらい、ボクの人生では重要な映画、なんですね。
主演のマルコム・マクドウェルはとってもいい役者なんだけど出演作に恵まれていないんですよね。「カリギュラ」「キャット・ピープル」「ブルーサンダー」・・・ここらへんしか知らない。ずっと後に「北斗の拳」に出ていたりするんだけど、観てません。
あと笑えるところでは、作家(パトリック・マギー、熱演)が車椅子になって、ジュリアンというマッチョなデクノボウ青年と暮らしているんだけど、その青年役は6年後に「スター・ウォーズ」でダース・ヴェイダーをやったデイヴィッド・プロウズなんですね。そういえば歩き方がなんとなく・・・
さて。
ラストのラストで、「社会的治療」から「もとの自分自身」に戻されたアレックスが「I was cured all right」ってさらりと言うんだけど、初見時からボクはこの言葉が耳をついて離れません。
「オレは完全に治った」みたいに訳されていたかなぁ。
バックにはレイプするアレックスの画像とベートーベン。
彼はラストのラストで「アイデンティティを取り戻した」わけですが、このセリフで映画が終わったあと、いつもボクは悩んでしまいます。
今のボクは、「治っているのか治っていないのか」。
つまりは「ボクは自分自身を生きているのか」という根本的な哲学になることなんだけど、暴力的でポップで卑猥な映画でありながら見終わった後そういう気分にさせるところが、キューブリックなんですよね。
同じ主題でもビリー・ワイルダーならこうは描かない。
Are You cured all right?
p.s.
スタンリー・キューブリック監督はこの文章を書いた一週間後(1999年3月7日)に亡くなりました。
遺作は「アイズ・ワイド・シャット」。
【1999年3月記】
1999年03月01日(月) 12:30:50・リンク用URL

@satonao310