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「アマデウス」

アマデウス

AMADEUS

Milos Forman
F. Murray Abraham, Tom Hulce, Elizabeth Berridge, Simon Callow, Roy Dotrice, Christine Ebersole
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1984年製作
180 minutes

監督・・・・ミロス・フォアマン
製作・・・・ソール・ゼインツ
脚本・原作・ピーター・シェファー
撮影・・・・ミロスラフ・オンドリチェク
編集・・・・ネーナ・デーンビック
マイケル・チャンドラー
衣装・・・・テオドール・ピステック
美術・・・・カレル・サーニー
音楽・・・・サー・ネビル・マリナー
キャスト・・F・マーリー・エイブラハム
トム・ハルス
エリザベス・ベリッジ
サイモン・キャロー
ロイ・ドートリス
ジェフリー・ジョーンズ

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この映画の主題は、本当に「嫉妬」なのだろうか。

この映画の主題を「秀才(凡才)の、天才に対する嫉妬」としている評論がとても多いけど、ボクは少し違う見方をしている。

確かにサリエリのモーツァルトに対する「嫉妬」が軸になっているように見える。
サリエリという秀才が努力してたどり着いた極みを、軽々と越えていく天才モーツァルト・・・。
でもそういう「嫉妬」が軸では、単に凡庸なる我々の共感を得るための「妬みの物語」になってしまう。
まぁ表面上はそういう物語に描いてあるし、モーツァルト毒殺説というスキャンダラスな筋書きが目立つ分、余計にそう取られがちだけど、でもやっぱりもうひと深みがこの物語にはあると思うのだ。

それは、神という要素。
そう、これは「神に対する葛藤」の物語。
もっとひらたく言うと「神と人間との三角関係」の物語だと思うのである。




映画はサリエリの、神父への告白という形で進行していく。

年老いたサリエリが精神病院で神父に懺悔を促され、彼は神への憎しみを語っていく。
神を愛し、神に裏切られ、そしてモーツァルトを殺したことで神に復讐したことを告白するのである。

田舎町に貧しく生まれた信心深い真面目な男、サリエリ。
音楽に憧れながらも家族の不理解により音楽の道に進めない彼。でも父の死後ウィーンへ行き、努力の末、皇帝ヨゼフ二世の宮廷音楽家にまで登りつめる。当時一番著名な作曲家として売れに売れるのだ。

そして、生真面目な彼はこれらすべてが神による彼への愛だと信じ、神への感謝の印として自らの貞操を捧げる。
貞操を捧げること。つまりは神との結婚。
サリエリはこの時「神とは両想い」の関係であると信じているのである。

そこに現れたのがご存知モーツァルト。

父から音楽の英才教育を受け、すでにヨーロッパ中にその名を知られていた天才音楽少年。しかしその実体は、酒と女におぼれ、神への信仰心のかけらもない幼稚な青年。もちろん神に貞操など捧げていない。

なのに!
神はモーツァルトを選んだのだ。
彼の音楽を聴いてサリエリは「自分の神への想いは片思いであった」ことを悟るのだ。
神は、神自身を表現する媒体として、貞操まで捧げたサリエリでなく信仰心のかけらもない幼稚な青年を選んだのだ。

彼は確かにモーツァルトに嫉妬する。
でもそれは、彼我の才能の差、に対してでは「ない」。
努力して努力してやっとたどり着いた極みを、軽々と越えていくモーツァルトの才能に対して、では「ない」のだ。

彼が嫉妬したのは、神の愛が自分ではなく彼に向けられたという事実に対して。

まさに三角関係。

長年両想いだと信じてきた神への想いが、ひとりのバカ青年の登場で「単なる片思い」とわかった時のサリエリの懊悩・・・。
彼は自分の音楽をモーツァルトに愚弄されるたびに、神に自分の想いを揶揄されたのだと考える。
そして、モーツァルトの音楽を聴きそこに神を感じるたびに、今まで自分を捧げて愛してきた神に裏切られたと思うのである。

で、彼は神に復讐する。
神の愛を受けたモーツァルトと仲良くし、自分だけが彼の味方だと思いこませ、陰で彼を陥れ、死に至らしめることで神を嘲笑し、復讐していく。

死の床で、モーツァルトにレクイエム(鎮魂歌)を作らせるサリエリ。
そう、レクイエムはモーツァルト自身の鎮魂歌。
言うなれば「神への別れの手紙」。
サリエリは、モーツァルトに無理矢理「あなたと別れます」と書かせたのだ。
死に神のような使者を演出し、モーツァルト自身に「神から愛されていない」と思いこませ、別れの手紙を書かせたのである。
うーん、こう書くとほとんど火曜サスペンス劇場!

---実際にはレクイエムはモールァルトの弟子ジュスマイヤーが死の床で彼の口述を記譜し補作し完成させた。映画でサリエリが記譜するところはすべてジュスマイヤーの作曲の部分と言われているところ。でも映画ではどうしてもサリエリが付き添わないといけなかったのだ。クラシック・ファンの不興を買ってもサリエリが記譜しないといけなかったのだ。なぜなら、無理矢理レクイエムを書かせたようにしないと「神との三角関係」という主題が壊れてしまうから---




さて。
サリエリは神に復讐した。
身も心も捧げつくしたのに、神に愛されなかった自分。
そんな自己憐憫も、モーツァルトを殺したことで解消したかに見えた。

でも、サリエリは厳しい現実に晒される。
その後32年もの長き間、彼は現実を見続けるのだ。
死んだモーツアルトの音楽だけが生き残り、生き残った彼の音楽がすたれていく現実を。
モーツァルトの音楽はますます人々に愛されるものになっていった反面、いまや誰一人としてサリエリの音楽を演奏する者はいないという現実を。

結局彼は、モーツァルトを殺しても神の愛は戻ってこないことを知り、自殺を図る・・・。




うーん。
火曜サスペンス+中島みゆきみたいになってきてしまった・・・。

でも西洋史観から観ていくと、神を持たない我々日本人が感じているよりも、より「神」的要素が強い作品なのだとボクは思うな。

神を持たない我々は妙にサリエリに同情的にこの作品を観がちだけど、実はサリエリは地獄に落ちるべき人なのだ。キリスト教的教えに基づけば。

なぜなら、彼は神の愛を独占しようとした。
キリスト教的常識では「神は誰をも等しく愛している」のだ。モーツァルトのみを愛しているのではない。
なのに、彼は、神の寵愛を受けたのはモーツァルトだと信じ、神を裏切り、神に復讐したのである。




映画の最後の最後。
サリエリが死ぬところにモーツァルトの例の高笑いが響きわたる。

あれはサリエリの心の悔恨として響いているのではない。神の勝利の笑い声として天から響いているのでもない。

あれは、モーツァルトが昇天したサリエリを地獄で迎える声なのだ。

そう、サリエリはモーツァルトから逃れられない。
彼の苦悩は死んでからも続く。
なぜなら、神は誰をも等しく愛している、ということに彼は気づかなかったから。

だって、神は、サリエリをちゃんと愛したのだ。
彼の努力を買い、宮廷音楽家(出世の頂点)にし、いま2000年を迎えようとしている現代でも彼のCDが少ないとはいえ出ているほどは才能を与えた。

それがわからないサリエリは、彼自身どんなに神を愛していようと、今日も地獄を彷徨い続けるのである。
そしてそれがわからない凡庸なるもの達もまた、彼ら自身どんなに神を愛していようと、決して神の元には行けないのである。


あー、最後は神父の説教みたいになっちゃったよ・・・。



p.s.1
監督は75年「カッコーの巣の上で」でアカデミー賞主要5部門を獲得したミロス・フォアマン。そういえば「カッコーの巣の上で」も精神病院での物語だったな。86年には「心みだれて」で俳優としてジャック・ニコルスンと共演している。
撮影はミロスラフ・オンドリチェク。彼も、監督のミロス・フォアマンもチェコ出身。
だからかな、一緒に組んで「カッコーの巣の上で」「ヘアー」「ラグタイム」「アマデウス」と撮っている。「ガープの世界」も彼の撮影。


p.s.2
音楽監督&指揮はネビル・マリナーがいつものアカデミー・オブ・セントマーチン・イン・ザ・フィールドを率いて華麗にモーツァルトを演奏している。まぁサー・ネビル・マリナーなら、うるさいクラシック・ファンも納得の人選だろう。
音楽といえば、サリエリとモーツァルトが初めて出会った日、サリエリが作ったモーツァルトを歓迎する曲をモーツァルトがひらめきで変えていくところで「フィガロのアリア」が使われるのは音楽愛好家へのちょっとしたいたずら。知っている人は笑ったはずだ。


【1999年11月記】

1999年11月01日(月) 12:36:10・リンク用URL

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