ル=グインのとても控えめな抗議
2006年9月 1日(金) 6:34:45
ある程度長くこのサイトを読んでくださっている方ならボクがどの程度「ゲド戦記」シリーズを愛しているかわかっていただけると思う。2003年2月、最終刊と思われた「帰還」のあと11年を置いて5作目「アースシーの風」が発売されると知ったときの喜びたるや!
個人的には「十二国記」も「指輪物語」も「ナルニア国物語」も越えると思っている「ゲド戦記」シリーズ。「ジブリがアニメ化」のニュースを聞いたときは不安でいっぱいだった。しかも続報で宮崎駿氏の長男が監督すると知ったときの衝撃。いや世襲がどうのとかは思わない。きっと優秀な人なのだ。それはいい。そうじゃなくて、あの世界的名作を経験のない新人監督にやらせることに衝撃を受けた。原作の想像力に勝てるのか? あの広大さを再構成できるのか? 百戦錬磨の監督ですらびびるような複雑かつ深い哲学のあの物語を。経験のない人が。
まぁ映画は観てないので(怖くて観られない)何も言う立場にないが、原作者であるル=グインのとても控えめな抗議を読むに、なんだかいたたまれなくなる。彼女が繰り返し書いているように、映画化が決まった時点でそれは作者の手を離れる。だから仕方ないことだ。作者にとっては。でも世界中にいる、長い年月「ゲド」を読み続けた読者はどうすればいい? 「ゲド」を利用して監督のイイタイコトを言うにしても、「ゲド」を愛し続けた世界中の読者の長い年月をもう少し考えてほしかった。うん。観てないから実のところはわからない。でも少しは敬意を持ってそのことを考えてくれていたなら、ル=グインはあんなことを書かないだろう。
リンク先の「中立的な訳」から一節だけ彼女の言葉を引用する。
アメリカと日本の映画製作者はどちらも、名前といくつかの考え方を使うだけで、わたしの本を原作と称し、文脈をあちこちつまみ食いし、物語をまったく別の、統一性も一貫性もないプロットに置き換えました。これは本に対する冒涜というだけでなく、読者をも冒涜していると言えるのではないでしょうか。
最近では「のだめ」のドラマ化で、シュトレーゼマンを竹中直人がやると聞いたとき、同じようないたたまれなさを感じた。こっちも怖くて観られない。
