時の秘密  --98.09.21




ボクはビデオカメラというものにあまり魅力を感じない。


そんなにテープ回し続けてもあとで見る時間ないぜ、というようなこともあるのだが、それよりなにより、動画より静止画の方が好きなのだ。

すごくいい景色でも、動画で見ると感動しないが、静止画、つまり写真で見ると感動する。

人の顔でも動物でも、そしてなんでもない日常でも、ビデオで見るとなんだかつまらないのだ。 逆に写真で見るとわりと感動したりする。



娘の幼稚園の入園式でも、全家族中うちだけビデオを映さなかった。

まわりの夫婦はみな最新機種を手から離さずテープを回し続けている。
中には夫と妻がそれぞれ違うビデオを持ち、違うアングルから撮影している家まである。

カメラだけしか持っていないのは、うちだけ。
それも要所要所でカシャっと撮るだけだ。




なんでなんだろう。

昔からどうもビデオカメラが楽しくない。

仕事が映像関係であるくせに、だ。





そんな疑問を持っていたことも忘れていた昨日の日曜日、ボクは星野道夫の新刊「表現者」を読んでいた。

去年クマに食べられて死んでしまったあの素晴らしいカメラマン、星野道夫。
彼のエッセイは、珠玉の輝きに満ちている。


その「表現者」に収められていたある川の写真を見て、ふとボクは忘れていた何年も前のある出来事を思い出し、ボクがなぜビデオでなく写真に惹かれるのかを突然理解したのだった。





それは北海道ロケの最中だった。

一緒に仕事をしていた老プロカメラマンの「河原の草花 撮影行」につき合ったときのことである。

撮影行、とは言っても、ホテルでの待ち時間にホテルに裏の河原にちょっと出かけただけ。


「花、撮りに行くんだけど、佐藤さん、一緒にいきません?」


ボクはその時、カメラなど持っていなかったから、一緒に撮りに行こうというのではなく、散歩がてらつきあえよ、という意味だと理解し、まぁ夕方の本番まで暇だったからついていった。



暖かい日だった。
風もなく、雲もなく、かといって日差しが強いわけでもない。


共通の話題がないボクたちは、黙って歩いた。

川の音だけがやけに響く、本当に風がない日だった。
足元に萌える草花はそよとも動かない。


老カメラマンはあるなんでもない花に目を付けて三脚を立てた。

手慣れたものだ。

露出など計る素振りもなく、さっと空を見て、太陽に雲が掛かる可能性が全くないことを確かめる。




ボクは、川の流れを遠くに見ながら、早く撮り終わらないかなぁ、早く川を近くでみたいなぁと思っていた。
彼が一枚カシャリとシャッターを落して、次の花を探しに川の方へと歩くことを期待していたのだ。

そう、老カメラマンにつきあったことを早くも悔やみはじめていた。
共通の話題もなく、花を撮ることに興味もないボクはすでに退屈を感じていたのである。

早くシャッターをカシャリと切れよ。
はやくその花撮っちゃって、川へ向おうよ。
川についたらボクは彼に別れを告げて、川を上流にさかのぼってみよう・・・




と、




カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ




彼はなんと連写したのである。


間違って連写したのかと思い、苦笑しながら彼を振り返った。

が、彼はまだファインダーを覗き込んでいる。



風は全くない。被写体はそよとも動かない。

光の加減も花の姿も全く変わらない。

なぜ、連写・・・?




すると、また、




カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ




予備を何枚か撮るなら、それはそれでわかる。

でもこれは予備の枚数を越えている。









「動いていないように見えても、一枚一枚違うんです」


彼がそんな話をしてくれたのはその夜だったか。


「ボクたちスチール・カメラマンは、動いているものの一瞬を切り取っているんではないんです。一瞬一瞬の静止画が、数万枚集まって、やっと1秒なんです。ボクたちはその中から一枚だけ抜き取る作業をしているんです」


そんなような言葉だった。


彼の目にも野の花が一瞬一瞬変化していく様は見えないらしい。

でもカメラが彼にそれを見せてくれる。

野の花という存在が、時間とは一瞬一瞬の静止画の集まりであることを彼に教えてくれるというのだ。




その時やっとわかった。

カメラは人や風景を写す道具ではない、と言うことが。

カメラは「時間」を写す道具なのだ。

そういえばアラーキーなどは臆面なく日付付きのワンタッチカメラで作品を撮り続けている。 彼はわかっているのだ。
被写体が主役なのではなく、時間が主役であることが。






昨日、「表現者」を読みながら、そんなことを思い出した。

人生が一瞬一瞬の静止画の集まりであると思い出させてくれるから、写真は見ていていとおしいのだ。
その一瞬一瞬のきらめきが右から左に流れて行ってしまうから、ビデオはいとおしくならないのである。
そう、ビデオには、動画には「時間」が映っているように見えて、実は映っていないのだ。




カメラマンは「時間とは一瞬一瞬の静止画の集まりであること」を知っている人種である、とボクは思う。
「時の秘密」を知っている数少ない人達なのだ。



で、ボクも、

ボクも、人生という時間がそういった一瞬一瞬の集まりであることを忘れないために、

今日もビデオカメラを使わずにカメラを撮るのである。



この、ビデオカメラで撮った画のように次々流れ去っていく日々の時間の、そのたった一瞬一瞬をいとおしく思い続けたいのである。



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