オーノー! 洗脳!  --00.09.28





前回の日記の「ムツゴロウ動物王国に2泊3日」の翌週、「会社の研修所に2泊3日泊まり込み研修」に行ってきた。

会社に入って16年。
同期が横並びで全員昇格したので、会社としても区切りとして研修でもさせておこう、ということなのだろう。

内容を無理矢理ひと言で言うと「会社組織人としていかにあるべきか!」みたいなもの。

「会社の目的とは利潤の追求である」というベイシックから、自己啓発や管理技法、組織活動のコミュニケーション、上下左右のコミュニケーションまで、耳あたりの良いオブラートに上手に包んではあるが、要は「おめーら、もっと効率よく働けー、おらー」の連続であったのだ。

さすがに「駅前で大声で叫ぶ」なんつう項目はなかった(あったら速攻で会社辞めます)。
が、2泊3日朝9時から夜10時まで、座学+グループ検討+発表+反省会・・・というスケジュールで洗脳シャワーを浴び続けるのである。

いや、マジで洗脳。

あの調子で1ヶ月寝食を共にしたら、もろ「サティアン」なのである。
たった3日でも、ちょっと油断すると「うーん、24時間すべて会社に捧げないとな」って気分になる瞬間がある。だって捧げないとこなせないスキルばかりなんだもの。で、捧げた先になにかイイコトが待っていそうな気になるんだもの。んでまた上手に「やる気」をおこさせたりするんだもの。

あー、宗教だなー、この図式。
教祖が信者を施設に囲い込むのがよくわかる。効果的だもの。飯も部屋も与えられて一日中講義を受けているとすべての姿勢が「受け身」になってくるのだ。受け身になった途端に、自立精神は弱体化し、なんでも「そーかもなー」って妙に納得しはじめてくる。


「受け身」・・・。
それはまさにボクが「それだけは避けよう」と日々心がけている姿勢なのだ。



このホームページでレストラン採点などを始めたのは5年前(実際に手帳に点を付けたりしてたのは8年前くらいから)。

食べた店に点を付けたものを発表するなんてちょっと下品な行為だなとは思いつつ、また、知り合いの料理人の話などを聞いているとその苦労は実に大変なものだということもわかりつつ、なぜ採点などを始めたか。

もちろん「ここっていい店だよー」って他人に言いたい性分であることもある。
が、「自分の意見を公衆の面前で発表すること」で「受け身の姿勢から常に身を遠ざけておく」状態をキープできるというのも大きかったのである。

うう。わかりにくいな。
ええとね、ひらたく言うとね、マスヒロとかね、見田盛夫とかね、そういった方々が書いたレストラン批評をそのまま受け入れて「おお、マスヒロがうまい寿司と言うのだから、やっぱこれはうまい寿司なんだ!」「うむ。これはちょっと生臭いと思うが見田盛夫がいうならやっぱりうまいフォアグラなんだ!」「ひどいサービスだと思うけど雑誌はどこも誉めてるしまぁこんなもんなのかな」とか思ってしまうような無批判な自分がね、イヤなの。

つまり「自分がどう思ったか、ということを一番大事にしよう」と思い立ったんですね。
で、まず一番興味がある「食」「レストラン」分野でまずそれをしはじめようとしたわけなのだ。

有名な評論家がどう言おうが「自分はいったいどう感じたのか」・・・。
雑誌やタレントがどう誉めようが「自分は実際どう思うのか」・・・。


普段から問題意識を強く持てばその姿勢はちゃんとキープできるかもしれない。 でも、それは自分の心の中で思っているだけではなかなか明確にならない。どこかで他人の意見に左右されてしまう。だから「文章にして発表する」という手段が大事だったのだ。文章にしてカタチにすると、自分の意見が自分の中で再確認できるのである。


そういう習慣がついてから、ぼんやりと食べることがなくなった。 常に「他人がどう言おうが、自分は、この味をどう思うのか」「評論家がいかに誉めようが、自分は、このメニューの組立をどう思うか」「雑誌がどう絶賛しようが、自分は、このサービスをどう感じるか」と、食べながら考えるクセがついた。一緒に食べに行った人や評論家や雑誌の言葉に左右されることがなくなった。

ふむ。なるほど。レストランに関してはかなり自分の意見が持てるようになってきたぞ。
でもこれってさ・・・本や映画や音楽にも応用できるよなー。

つうわけで、映画評や音楽評も出すようになった。
映画評論家がどう書こうが、音楽評論家がいかに誉めようが、いままでの自分なりの人生経験に照らして自分はどう感じたのか。どう思ったのか。それを少しずつ表明できるようになってきた。

その後、不定期日記(これですね)も発表するようになった。
テレビや新聞や雑誌から垂れ流されてくるニュースや情報も、「マスメディアがどう論評しようが、自分はどう思ったのか」を常に考えるくせがついてきた。
情報や論評を無批判に受け入れないで、「ホントかよー」と疑ってかかり、自分の意見・旗色を明確にしておくクセがついてきたのだ。


ホームページの効用はいろいろあるが、「自分だけの視点を常に意識するクセがついた」のは実は一番大きな効用かもしれない。




よく「レストラン批評にしても本にしてもCDにしても映画にしても、あのような文章を発表する勇気が私にはありません」というようなメールをいただく。

ボクにもないのだ。
ボクより詳しい専門家やボクより深い趣味人はゴマンといる。その人たちすべてがネットを読めるわけで、わかったようなことをああやって書いているのは、実はとても気恥ずかしい。

でも。
そのレストランに行ったのはまぎれもなく「ボク」だし、その本を読んだのもその音楽を聞いたのもその映画を観たのも、評論家でなく「ボク自身」なのだ。他人がどう感動したか、が大事なのではなくて、ボクがどう思ったかが、一番大切なことなのだ。自分の感情を自分が受け止めてあげなくて、誰が受け止めてあげるというのだ。

だからこれからもボクは臆面なく、自分の意見を文章にして発表していこうと思う。

この作業によって、自分が明確になる。
つまり「自分とは何か」という謎も少しずつ解けてくるのである。

で、それもどんどん文章にしていこうと思う。

もちろん文章にすることで逃げてしまう感情もあるのだが、逃げずに残る大切な感情もある。
それをぎっちり積み上げていきたい、と、そんなことを思っているのである。





・・・うにゃ。
会社の研修の話だったな。毎回ハナシがずれるなぁ。

つまり「ボクが、それだけは避けよう、と日々心がけている姿勢」である「受け身の姿勢」を会社は泊まり込み研修というカタチでボクに強要し、なんとか洗脳してしまおうとしたわけですね。意識せずとも、結果的にはそういうこと。


ボクはとりあえず洗脳されるのが怖かったから、常にハスに構えて、いかにも「ケッ!」って顔をしていたらしく、講師から始終目を付けられていたなー。
最後の個人面談では「自分の考えをもっているのもいいが会社人としてもう少し自覚を持ってほしい」みたいなことを言われる始末。
阿呆。これからの会社は個人のオリジナリティをいかに活用するかにかかっているわけで、組織人っていう考え方自体がすでに古いのだ。
社員側も、自分だけの資質をいかに会社に「売る」かがポイントになってくるはず。うちみたいな広告会社は率先してそれをやらんといかんのにいまさら「組織人洗脳」をするのになんの意味があるのだ!

そのうえそのうえ、そこには「会社生活は人を幸せにするか」という視点が欠けているぞよ。
会社人としてのスキルアップが、どう人生を豊かにしどう社員の幸せに関わってくるかという根本が欠けすぎている。むぅ。会社のための人生ではない。人生のための会社なのだ。そのへんが曖昧になっているから、特にくだらなく感じたぞー。
(でも、講師の話を聞きながらメモしたり仕切りにうなずいていたりヤツもいたなー。ダイジョブか?)



うーむ。
とりあえず前半の論旨どおり「自分の意見」を明確にしておこうかな。
会社と自分の関係について、である。つまり・・・。



ボクは会社に「自分の時間を切り売り」している。
売った分だけは誠意を持って働こう。お金と引き替えに労働と才能を捧げよう。
が、切り売った分以外の「自分の時間」は自分だけのものである。
会社がいかにそれを必要としていようと、ボクからそれを取り上げる権利はないのじゃー!




むは。
かなり使いにくい社員かもね。つうか、組合のアジ演説みたいだー。
うーむ。でも「今は」本当にそう思うんだもん。
くだらん会議とか残業とかで、ボクの貴重なかけがえのない時間(人生)を奪わないでくれ。頼むよ。


人生とは時間そのものなのだ。
自分のためにソレを使うために、ボクたちは産まれてきたのだ。

残業も休日出勤も、実に不当な要求なのである。
強制泊まり込みの研修などもってのほかなのだ。なぜ強制的に泊まり込ませる? 夜は家に帰してくれ。自分だけの時間を使ってやりたいことが山ほどあるのだ。


会社よ。
会社は金を払って社員の人生を買い取った気になっていないか?
根本的になにか勘違いしていないか?
え?会社さんよ!









・・・・・って、なんか肩に力の入った文章だなー。
こういうときはね、わりとまだ「自分の視点」がぐらついたりしているんだよね。
自信がないときに限って、こういう文章を書くようです、ボク。

はは。
ま、そういうことがわかるのも、ホームページを書き続けてきた効用なわけですね。







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