7 8 オサニチ第42回 不機嫌さはなんらかの能力が欠如しているのを覆い隠すため 4 5




ふと気がつくと、昨日と同じような一日を送っている。
昨日と同じように会社に通い、昨日と同じようにテレビを見、昨日と同じようにビールをグビる。
生活のためとはいえ、そんな毎日を送って老いぼれてくのはゴメン、だよね?

同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激。

機械的な毎日に人生を牛耳られないために。「オサニチ」。連載中。

 


第42回「オサニチ的胸にチクチクくる言葉(その30)」(2005年09月)

 

古い女友達がいる。
彼女とはご飯を何回か一緒にしただけの関係。いまはもう会う機会も理由もなく、連絡つけようと思えばつけられるがそれも唐突だしなぁといった程度の仲である。というか、つい最近までその存在を忘れていた。

彼女はなにしろ「気分の変わらないヒト」だった。
いつでも上機嫌を保っていた。きゃーきゃー明るいというわけではないのだが、とにかく暗くなることがない。不機嫌な姿を見たこともない。私もいろいろあってね、みたいな悩み深い顔や、イラついた顔の彼女を見たことがないのである。常にニコニコ上機嫌なヒトであった。

わりと近くにいたのに、しばらくそれに気づかなかった。
いつも機嫌がいい人というのは、不機嫌な人に比べて気づかれにくいものである。でも、ふとした瞬間に「そういえば彼女の不機嫌な姿を見たことないな」と気がついてからは注意深く観察するようになった。そしてこの彼我の違いはなんだろうと気にするようになった。
いつも上機嫌なヒトって、どこかバカに見えたりするし、悩みがなくて薄っぺらい人に見えがちだ。ボクもわざと不機嫌っぽく見せて「人生を悩んでいる」風に演出したりしていた。青年期によくありがちな態度である。実はたいして悩んでもいないのにね。

さて。
この前、斉藤孝の「上機嫌の作法」(角川oneテーマ21)の中のこんな言葉を読んで、突然鮮やかに彼女のことを思い出した。

 

私には、不機嫌さは『なんらかの能力が欠如しているのを覆い隠すため』だとしか考えられません。

 

そして彼はこうも言う。

「不機嫌にしていると周囲が気遣いを見せてくれるのは、敬意を払われているのではなく、労(ねぎら)われているのです。社会性がある成熟した人間として見られていないのだと気づかなくてはなりません。」

「たとえば、無能さを突っ込まれないようにするため。あるいはお調子者だとかバカだと思われないようにするため。不機嫌であることが、あたかも威厳があり、知的であるかのように思うのは大きな勘違いです。」

「なんて無意味に機嫌の悪い人が多いのでしょう。不機嫌にしていることで、メリットがあるでしょうか。考えてみてください。誰かが気分よくなったり、もしくは仕事が進んだりするのか。不機嫌ムードを発していることで仕事がうまく進むのであればともかく、実際そんなことがあろうはずがない。くよくよして、むっとして、無気力でいて、何か新しいものが生まれるでしょうか?」

そうなのだ。
不機嫌でいることは何の進歩ももたらさない。不機嫌でいたってなんにも知的に見えないし、深く考えているようにも見えないのだ。彼女の上機嫌さは、単なる性格ではなく、それらをわかった上での「技」だったのだ。彼女は意識して上機嫌をキープしていたのだ。

難しい仕事をしているとき。悩み深いとき、ヒトとうまくいかないとき。
ボクも思わず不機嫌になる。
でも、そういうときだからこそ、上機嫌で立ち向かわないと突破できないだろう。不機嫌は何も生み出さないのだ。

彼女と会わなくなってからもう10年くらい経つ。彼女はいまも常に上機嫌を保っているだろうか。久しぶりに一緒にお酒を飲んでみたくなった。






satonao@satonao.com