7 オサニチ第38回 誰も見てないんであります 4 5




ふと気がつくと、昨日と同じような一日を送っている。
昨日と同じように会社に通い、昨日と同じようにテレビを見、昨日と同じようにビールをグビる。
生活のためとはいえ、そんな毎日を送って老いぼれてくのはゴメン、だよね?

同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激。

機械的な毎日に人生を牛耳られないために。「オサニチ」。連載中。

 


第38回「オサニチ的胸にチクチクくる言葉(その26)」(2005年05月)

 

第27回のオサニチで「とにかく歩いてください。歩くことは考えることです」という言葉をご紹介した。 ボクが浪人時代に通っていた駿台予備校の大岡師(駿台では先生を師と呼ぶ習わしがある)の言葉である。

当時(25年前)の駿台の教師はまさに多士済々で、どの授業もおしなべて刺激的であった。
知識だけでなく知恵まで話を広げて、人生観や哲学を語る教師も多かった。一度受験に失敗して否応なく人生を考えさせられた浪人生たちの心にその言葉たちは砂漠に水が染みこむように吸収された。心の深いところに届く水であった。
本当だよ。だってボクは駿台の授業で語られた言葉を25年経った今でもいくつも覚えているもの。

で、今回も駿台の教師が語った言葉の中からひとつ取り上げようと思う。
英語の奥井師が授業中に言った言葉である。つか、なーんもありがたみのなさそうな言葉なのだが、当時のボク、いや、今のボクでさえ、胸にチクチクくる言葉なのである。

 

誰も見てないんであります。

 

うはは。だからどうしたって感じの言葉だよね。でも「あ、そうか。そうだよな」と当時のボクを納得させ、現在のボクもこの言葉で自意識過剰になりがちな自分を抑えるのである。

奥井師の英文解釈の授業はそれはもう絶品で、立ち見はアタリマエ。1000字ほどの英文を1時間かけて講義しながら訳していくのであるが、それはそれは完成度の高い授業でマジ聞き惚れたものである。

たしかこの言葉を話した授業はスポーツの訳文を作っていたのだと思う。途中で奥井師は必ず一回は大脱線し、めちゃくちゃ面白い漫談に発展するのだが、その日は「久しぶりにテニスをやったんであります」というお話だった。その中でこの言葉は話された。なんとか当時を再現してみよう。

久しぶりにテニスをやったんであります。
ご覧の通り私ももう老人であります。でも意外とうまいんであります。
こうね、こう、バシッと強い球を打つ。ネットをギリギリに超える。そしてラインぎりぎりに落ちる。それはそれはもうみなさんにお見せしたいような美しい球なのであります。(何度か右手でフォアハンドの格好を繰り返す。カッコ悪いうえに美しくないフォームなので笑いが起こる)
ただ、相手が卑怯にも背中側に打つんですな。
私の左に。
卑怯ではありませんか。なぜ正面に打ってこない!(会場笑)
私は日本男児でありますから、相手の背中側になど打たないんであります。
それでもきゃつらは打ってくる。
卑怯です。
ですから、私は(ラケットを左に持ち替える動作をして)こう打つんであります(教室内爆笑)。
左手に持ち替えて打てば良いのであります。
左手で打った方が遠い球でも拾えるし、なにより敵に背中を見せなくてすむのであります。(右手で打って、すぐ持ち替えて左で打つ動作をカッコ悪く繰り返す。会場爆笑)
アナタたち。そうやって笑うでしょ。
そんなのおかしいって。
恥ずかしいって。
でも、であります。
誰も見てないんであります。
誰もアナタなんか見てないんであります。
ヒトは、アナタが思うほどアナタなんか見ちゃいないんです。
だから、他人に笑われないか、とか、このやり方はおかしいんじゃないか、とかばかり気にして生きるのはつまらないんであります。
あなたの好きなようにやればいいんであります。
球なんか左手で打てばいいんであります。
そりゃ笑う人も少しはいるでしょう。でも、結局、それほど他人は見ちゃいないんです。他人なんか気にせず思うようにやったらいいんであります。

……こんな文脈だったと思う(なにしろ25年前のことなので多少脚色している)。

ボクはとても見栄っぱりな若者だった。他人の目を気にし、自分を他人のモノサシに合わせて生きていたところがある。

でも、冷静に周りを見てみると、確かに、自分が思うほどヒトは自分なんか見てない。見てもすぐ忘れる。とうか、よく見てくれる人はすでに親友だ。自分が思うようにやったことを笑ったりせず、理解してくれるであろう。そうでない他人なんか、どうせ誰も見てないのである。見ても覚えてなどいないのである。

そう考えてくると、相当自由になる。好きなように生きよう。他人の目など気にせず生きよう。そう再確認できるのである。






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