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春は花の季節である。
言葉は眼の邪魔になるものです。
この言葉の後に小林秀雄はこう続ける。名文だ。 「例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だと解る。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、かって見た事もなかった様な美しさ、それこそ限りなく明かすでしょう。」 例えば、ん?あの道端の青い小さな花はなんだろう? と近寄ってみる。 小林秀雄は「画家はそういう風に世界を見ている」と続ける。あ、あれは何だろうと思って近づくのは一緒だが、ボクらが名前を知ろうと思って近づくのとは根本的に違うのだ、と。 「画家は皆そういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見て描いているのです。そうして出来上がった花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。絵は、画家が、黙って見た美しい花の感じを現しているのです。花の名前なぞを現しているのではありません。何か妙なものは、なんだろうと思って、諸君は、注意して見ます。その妙なものの名が知りたくて見るのです。何だ、菫の花だったのかと解れば、もう見ません。これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見厭きないのです。好奇心から、ピカソの展覧会なぞへ出かけて行っても何にもなりません。」 20年前、ボクはこの一連の文章を読んで、絵の見方まで知ったのだった。「画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない」と。裸婦像も静物画もなるほどそうやって見るのか、と。ピカソの展覧会へ行くということはピカソの眼を共有することなのだ、と。 だからボクは美術館に行っても絵の題名をなるべく見ない。
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