7 オサニチ第37回 言葉は眼の邪魔になるものです。 4 5




ふと気がつくと、昨日と同じような一日を送っている。
昨日と同じように会社に通い、昨日と同じようにテレビを見、昨日と同じようにビールをグビる。
生活のためとはいえ、そんな毎日を送って老いぼれてくのはゴメン、だよね?

同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激。

機械的な毎日に人生を牛耳られないために。「オサニチ」。連載中。

 


第37回「オサニチ的胸にチクチクくる言葉(その25)」(2005年04月)

 

春は花の季節である。

家やベランダや街角を花で飾る人が増え、散歩していると本当に美しい花々に出会う。
「あぁこの花は何という花だろう…」
そのたびに花の名前が気になるのだが、もう20年以上、あまり花の名前を知りすぎないように心を戒めてきた。

はは。変な戒めだよね。
でも、花の名前を知った途端ヒトは花を「見る」ことをやめるのだ。その心の動きを活写した文章を小林秀雄が「美を求める心」の中で書いている。高校時代この文章に出会って以来、花の名など覚えず、ただ虚心坦懐に「美しいもの」「妙なもの」として花を見る、ということを自分に命じてきた。

今回の言葉はその文章の中から。

 

言葉は眼の邪魔になるものです。

 

この言葉の後に小林秀雄はこう続ける。名文だ。

「例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だと解る。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、かって見た事もなかった様な美しさ、それこそ限りなく明かすでしょう。」

例えば、ん?あの道端の青い小さな花はなんだろう? と近寄ってみる。
キレイだなぁ、はかないなぁ…
でも「あぁなんだ、オオイヌノフグリか」と解った途端、ヒトは「見る」のをやめるのだ。観察せず、オオイヌノフグリというラベルを心の中で貼り、なんでもないもののように見捨ててしまう。

が、その花の名前を知らなかったとしたら。
グッと眼を近づけ、その幽かな青と白の共演をじっくり見て心にとめるかもしれない。世界とはなんて美しいものかと感じ入るかもしれない。そしてそういう観察をするものだけに、花は「かって見た事もなかった様な美しさ」を明かすのだ。

小林秀雄は「画家はそういう風に世界を見ている」と続ける。あ、あれは何だろうと思って近づくのは一緒だが、ボクらが名前を知ろうと思って近づくのとは根本的に違うのだ、と。

「画家は皆そういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見て描いているのです。そうして出来上がった花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。絵は、画家が、黙って見た美しい花の感じを現しているのです。花の名前なぞを現しているのではありません。何か妙なものは、なんだろうと思って、諸君は、注意して見ます。その妙なものの名が知りたくて見るのです。何だ、菫の花だったのかと解れば、もう見ません。これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見厭きないのです。好奇心から、ピカソの展覧会なぞへ出かけて行っても何にもなりません。」

20年前、ボクはこの一連の文章を読んで、絵の見方まで知ったのだった。「画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない」と。裸婦像も静物画もなるほどそうやって見るのか、と。ピカソの展覧会へ行くということはピカソの眼を共有することなのだ、と。

だからボクは美術館に行っても絵の題名をなるべく見ない。
絵に対しても、ボクたちは「名前」を知りたくて見てしまうから。そして題名を見た途端「見る」のをやめてしまうから。画家が描いた、言葉をもたない美しさや妙な部分が見えなくなってしまうから。

その結果、ボクにとっての美術館の存在意義は180度変わった。美術館は美しいものが置いてある場所ではなく、美しいもの・妙なものへの画家の視点が並べてある場所なのだ。
だから美術館に行くことは相当パワーを要したりする。余暇にぶらぶら行くなんてことはなかなか出来ない。睡眠足りた健全な精神状態で訪れるべき場所になってしまったのである。






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