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ふと気がつくと、昨日と同じような一日を送っている。
昨日と同じように会社に通い、昨日と同じようにテレビを見、昨日と同じようにビールをグビる。
生活のためとはいえ、そんな毎日を送って老いぼれてくのはゴメン、だよね?

同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激。

機械的な毎日に人生を牛耳られないために。「オサニチ」。連載中。

 


第35回「オサニチ的胸にチクチクくる言葉(その23)」(2005年02月)

 

このところ、毎朝目が覚めたらすぐ、ベッドの上で呪文のように唱える言葉がある。


「今日なのかな、小鳥さん? 今日かい?」


そして窓から外を見る。風で揺れる木や空を行く雲を見る。そして自問するのだ。用意はいいか? するべきことをすべてやっているか? なりたいと思う人間になっているか?

うはは。わけわからないよね。すまんすまん。
でもね、ボクにとっては相当胸にチクチクくる大切な言葉なのである。

簡単に説明しよう。
これは「モリー先生との火曜日」(ミッチ・アルボム著/別宮貞徳訳/NHK出版)というノンフィクションの中に出てくる言葉で、著者の先生であるモリー・シュワルツが言ったもの。モリー先生は難病にかかっていて死の床についている。あと数ヶ月の命。そういう状況の中、彼はベッド上でかつての教え子である著者に最後の講義をするのである。「死とは」「恐れとは」「老いとは」「家族とは」「人生の意味とは」など、「死を目の前にしたからこそ学び取れた数々の真実」を説いていくのである。


「誰でもいずれ死ぬことはわかっているのに、誰もそれを信じない。信じているなら、ちがうやり方をするはずだ」

「いずれ死ぬことを認めて、いつ死んでもいいように準備すること。そうしてこそ、生きている間、はるかに真剣に人生に取り組むことができる」

 

これは「死について」と書かれている章の彼の発言だ。
そう、ボクたちは絶対に死ぬ。その事実から目を背けて生きてはいるが、絶対に死ぬ。そしてそれは今日かもしれないし明日かもしれない。本当は毎日「死の準備」をしていなければいけないのだ。今日死んでも後悔しないように、真剣に毎日を過ごさないともったいないのだ。平然と「いつかはこうしたい」とか語っているけど、いつかなんて来ないかもしれない。するべきことは今しないと…。

彼は「毎日の死の準備」の仕方としてこのようなやり方を提案する。


「仏教徒みたいにやればいい。毎日小鳥を肩に止まらせ、こう質問させるんだ。『今日がその日か? 用意はいいか? するべきことをすべてやっているか? なりたいと思う人間になっているか?』」


そして、肩に止まらせた仮想の小鳥に向かって、冒頭の言葉を吐くのである。

もうわかっていただけましたよね。
ボクは毎朝この言葉をリマインドして、疲れた自分を奮い立たせたり(今日死んじゃうなら疲れて倒れているのももったいない)、さぼりがちな心を引き締めたり(今日死んじゃうならさぼっているヒマなどない)、物質的なものに引きずられがちな自分を戒めたり(モノやカネなんて死んだら何の意味もない)、そしてなにより自分だけの「たぶんたった一回の人生」を楽しむために今日できることはすべてやろう、と確認して、ベッドを出るのである。
え? 毎朝そんな大層な決心してたら疲れそうって? んー、でも少なくとも人生の本質を見る目は養われる気がしますよ。

 

「(死の準備をすると)よけいなものをはぎとって、かんじんなものに注意を集中するようになる。いずれ死ぬことを認識すれば、あらゆることについて見方ががらっと変わるよ。いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べる」
「もし君が肩に乗った小鳥の声を聞くとする。いつ何どき死んでもおかしくないことを受け入れるとする。そうすると君は、今みたいな意欲を持てなくなるんじゃないかな。今、ずいぶん時間を費やしていること、やっている仕事、そういうものがすべて今ほど大切とは思えなくなるんじゃないか。何かもっと精神的なもののために場所をつくらなければならなくなるかもしれない」

 

確かに自ずから生き方が変わってくる。つまらないこと(金とか見栄とか名誉とか世のしがらみとか)から自由になり、本当に大切なものに限られた力を集中できるようになる。もっと精神的なものを大事にして、地に足をつけて歩いていけるようになる(気がする)。

どうでしょう。この「小鳥さん方式」。
みなさんもお試しになってはいかがでしょうか?






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