ふと気がつくと、昨日と同じような一日を送っている。
昨日と同じように会社に通い、昨日と同じようにテレビを見、昨日と同じようにビールをグビる。
生活のためとはいえ、そんな毎日を送って老いぼれてくのはゴメン、だよね?

同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激。

機械的な毎日に人生を牛耳られないために。「オサニチ」。連載中。

 


第33回「オサニチ的胸にチクチクくる言葉(その21)」(2004年12月)

 

何でも「テロとの闘い」という言葉で正当化するのはいい加減にしてほしいよな……とか思い始めてはや数年。
馴れというのは恐ろしいもので、世界の指導者数人がその言葉を繰り返し続けた結果、世界のほとんどが思考停止し「まぁその通りだよなぁ。少なくとも間違いではないし」とか思うようになったように見える。
なんてことだ。本当に間違っていないのか?

というかボクはいまだに意味すらよくわからないぞ。テロとどう闘うんだ? 
大量破壊兵器をなくせばテロが減る? 野蛮なテロ国家を攻めればテロはなくなる? ビン・ラディンを捕まえればテロに勝てる? ホント〜? だいたいわが国の首相も「テロ根絶」を旗頭に掲げているが、いったいどうやって根絶するの? テロなんて(自爆テロ程度だったら)やろうと思えば誰だって明日にでもできるじゃん!  チカラで支配したら逆に増えそうな気がするじゃん!


というか、そもそもテロってなんなのだろう?

アメリカの公式文書によるテロの定義は「the calculated use of violence or threat of violence to attain goals that are political, religious, or ideological in nature」らしい。訳すと「政治的、宗教的、あるいはイデオロギー的な目的を達成するため、暴力や威嚇を計算して使用すること」となる。……ねぇ、それってアメリカによる(大義名分のない)イラク侵攻とどこが違うのよ。誰か教えてくれ。


911以降、テロについての議論はたくさんされている。みなさんさすがに飽き飽きしているかもしれない。
でもね、やっぱりこのごろ「馴れすぎ」ちゃって思考停止状態になりつつある気がするので、定期的に復習しておきたい。それが今回とりあげる言葉。2004年11月11日に惜しまれて亡くなったパレスチナ解放機構のヤセル・アラファト議長の言葉である。

自分の土地を、侵入者、植民地主義者から解放し、自由にしようとしている者を、テロリストと呼ぶことはできない。でなければ、英国植民地主義者からの解放のために戦った米国人はテロリストになる。欧州でのナチスへのレジスタンスもそうだ。

そう、自由を守る尊い闘いは、一方から見れば独立戦争やレジスタンスとなり、他方から見ればテロになる。当たり前のことだ。でも、これを定期的に復習しておかなければ頭が混乱するような情報操作に世界はいまさらされている。われわれ自身が、もっともっと自覚的に、テロという言葉を使っていかなければいけないのだ。

つか、アメリカ自体がテロ国家の親玉だ。国際司法裁判所が国際的テロで有罪を宣告した唯一の国がアメリカであり、近代のアメリカの歴史はまさにテロとしかいいようがない事例で埋まっている。特にスーダンやニカラグアにやった行為は言い逃れができないものだ。そのこともちゃんと頭の隅で思い出しながら、テロという言葉を扱わなければいけない。

ビン・ラディンがやっていることはテロで絶対悪。ブッシュが(もしくはアメリカが)やっていることはテロではなく絶対正義。この構図のいかがわしさはみんな心の底ではわかっている。でもちょっと油断していると馴れて思考停止してしまう。

もちろん、だからアメリカは最悪だ、と言っているのではない。
正しい部分もあるし、アメリカ以外の国が主導権を握った場合の怖さも予測できる。が、少なくとも我々個人は「テロとの闘い」とか「テロ根絶」みたいな言葉に惑わされず、きちんと本質を見続ける必要がある。そこだけは馴れてはいけない。思考停止してもいけない。よく考えずになんでもテロでくくるのはやめよう。我々が何をやっているのか、世界がどういう方向へ行こうとしているのか、もっと深く冷静に判断するために。






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