ふと気がつくと、昨日と同じような一日を送っている。
昨日と同じように会社に通い、昨日と同じようにテレビを見、昨日と同じようにビールをグビる。
生活のためとはいえ、そんな毎日を送って老いぼれてくのはゴメン、だよね?

同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激。

機械的な毎日に人生を牛耳られないために。「オサニチ」。連載中。

 


第32回「オサニチ的胸にチクチクくる言葉(その20)」(2004年11月)

 

ボクの娘は小学4年生である。
低学年の頃に比べて、そろそろ得意不得意が明確になってきた感じである。

具体的に言うと、国語や社会は大得意で、算数や理科はイマイチだ。ボクにそっくりでビックリ。でも算数も理科もちゃんとやっておくと後で役に立つので、イヤがる娘をつかまえて特訓したりする。特に算数は「論理立って考える思考法」が手に入るので、不得意なままだとよくない。

ただ、当然のごとく時間は有限であるからして、算数や理科に時間を取ると得意な国語とかに回す時間は激減する。国語は得意みたいだからまぁいいか、とも思う。でもなぁ……本当にそれでいいのかなぁ……この子の国語力をもっと伸ばしてみたら面白いことにならないかなぁ……などと迷う自分もいる。そりゃ不得意な算数は克服した方がいいけど、せっかく得意な国語がおろそかになっては元も子もないのではないか?

そんなことを思っていたら、田口ランディがこんなことを書いているのにぶちあたった。

不得意なものを克服するには、人生はあまりに短い。自分のいいところだけを伸ばして生きていきなさい。


たぶん彼女のblogで読んだ言葉だと思う。昔、恋した男からこう言われたことがある、という文脈だった。もちろんこれは教育について語った言葉ではない。大人の生き方の根本を問うた言葉だ。なんでもない言葉のようだが、ボクはこの言葉に胸をチクチク刺されてしまう。

ボクは比較的「不得意恥じ入り型」な生き方をしてきた。
「出来ない」ということを恥じて克服しようとばかりしてきた。得意なことがたくさんあるのに、不得意なことの方ばかり気にして生きてきた。自分のいいところは過小評価して、欠点の方ばかり無意識にクローズアップしてしまう。それを「向上心」とポジティブに捉えることもできるが、本当の向上心とは不得意をなくして平均的な人間になることではなくて、得意を伸ばして向上していくことを言うはずだ。

たとえば、ボクは英語が不得意だ。でも本を書くくらいは日本語は得意だ。莫大な時間をかけて英語を克服するより、日本語をもっともっと得意にして充実させた方が早いし、人生も楽しいだろう。
ボクは経理とか財務がわからない。でも企画力はある。経理や財務に暗いと会社生活はつらいが、そこを克服するより企画力をもひとつ上のレベルに引き上げた方がずっと会社の役に立てるだろう。
ボクは好奇心が強く、興味を持ったことにはとことん突っ込むが、いかんせんムラがある。でもムラをなくして丁寧に平たく生きるより、ムラが多くてもメリハリのある人生の方がずっとボクらしいのではないか。

娘の場合、不得意克服というより必須スキルを学んでいるのだからこの論には当てはまらないだろうが、でも、算数は必要最小限程度にして、国語や社会を興味の向くままどんどん伸ばしてやった方がずっとワクワクする可能性が待っているのではないか。

自分の不得意を気にして克服しようとするより、「私はこんなことが得意です」と胸を張ってそこを伸ばす人生の方がたぶんずっと楽しいし、いろんな可能性がそこに生まれる。
そういえば外国人(特にラテン系)はそういう部分で物怖じしない。私はここが得意な素晴らしい人間ですとかスパッと人前で言い切る。それに比べて日本人ってもともと自分たちを過小評価しがちな国民性だよね。

でも、きっともうそういう時代ではない。
平均的に強い自分を創ってオールラウンド型サラリーマンになれば安心だという時代はとっくに過ぎ去った。不得意なことは得意な人に任せて、自分のいいところをどんどん伸ばして個性的に生きる、世の中の役に立つ、人生を楽しむ。そういう切り替えが必要だ。特に娘の世代はね。ごめん、娘よ、いまごろ気づいた。ボクの古い生き方を押しつけようとしていた。まず自分から変えなくちゃね♪






satonao@satonao.com