ふと気がつくと、昨日と同じような一日を送っている。
昨日と同じように会社に通い、昨日と同じようにテレビを見、昨日と同じようにビールをグビる。
生活のためとはいえ、そんな毎日を送って老いぼれてくのはゴメン、だよね?
同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激。
機械的な毎日に人生を牛耳られないために。「オサニチ」。連載中。 |
第26回「オサニチ的胸にチクチクくる言葉(その14)」(2004年05月)
人はよく「平和への道のり」という言葉を使う。
その道は曲がりくねって長く、遠く、そして時に血なまぐさい。平和というユートピアを獲得するために、人は過酷な試練を経なければいけないようなニュアンスがこの言葉にはある。そしてそれは当然のように思われている。平和への道が厳しいのは当たり前だよ、と。
ボクもどこかでそんなイメージを持っていた。平和は到達点でありゴールなのだ。世界平和。この甘美な言葉は遙かなる目標であり、もしかしたらかなわないかもしれないくらいの試練を要する。世界平和を手に入れるために、ある程度戦争とかも仕方がないのかも…。
そんなことを思うとき、おいちょっと待てよ、と、この言葉がチクチクと胸を刺す。
There is no way to Peace. Peace is a way.
チベットの言葉だそうだ。
平和への道などない。なぜなら平和こそが道だから。
そう、平和は遙かなるゴールではなく、平和という「方法」であり「やり方」なのだ。平和は獲得するものではなく、日常の生活の中にあって実践するものなのだ。
まさにそうではないか。
考えてみたら、平和を獲得するために戦争をすることほどナンセンスなことはない。よしんばある国がある国を破って一見平和になったように見えても、暴力という「方法」で獲得したのは「平和」ではない。一方的な「平定」だけである。そしてそれは新たなる暴力を生む。歴史が証明している。そうやって人類は暴力を繰り返してきたのだ。決して平和など訪れなかったのである。
有史以来、日本は戦争を重ねてきた。狭い国土内での戦乱、内乱、そして他国への侵略。戦争がなかった時代はほとんどない。そして(ある意味ラッキーなことに)第二次世界大戦に惨敗し、戦争放棄という理念を掲げた。まさに「Peace is a way」である。それがアメリカが作った憲法だったとしても、暴力を否定し平和を実践する、という世界でも珍しい平和憲法を結果的に持ったのだ。そして平和ボケと言われるくらい平和になった。ある意味、Peaceを実践している数少ない国であったのだ(アメリカに守られていたから見かけ上だけとも言えるけど)。
どうもこのごろそういう「way」を手放して、平和とか国際協力の名のもとまた暴力に手を貸そうとしているように見える。そんなことをしても平和は訪れない。だって平和は目標ではなくやり方だから。
改憲反対、憲法第九条堅守、と、どこかの党みたいに固執しているわけではない。時代の流れに沿って変えていくべきものは変えていこう。でも、このチベットの言葉を信じれば、この平和憲法が「way」のひとつなのは明らかだ。それを越えるものをボクらはちゃんと作れるだろうか。
そんなことを思う憲法記念日(5月3日)のボクなのでした。
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