ふと気がつくと、昨日と同じような一日を送っている。
昨日と同じように会社に通い、昨日と同じようにテレビを見、昨日と同じようにビールをグビる。
生活のためとはいえ、そんな毎日を送って老いぼれてくのはゴメン、だよね?

同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激。

機械的な毎日に人生を牛耳られないために。「オサニチ」。連載中。

 


第20回「オサニチ的胸にチクチクくる言葉(その8)」(2003年10月)


残暑が終わると、キリッとした秋が来る。
あぢいよー、とダラダラ過ごした夏を終え、朝に晩に涼気が心を洗ってくれる。なにかまともで文化的なことでもしなくちゃと、気持ちが姿勢を正しだす。女性たちの服装も露出度が抑え気味になり、煩悩も起こりにくくなる(うくく)。そう、秋だ。ボクは季節の中で秋が一番好きかもしれない。

この頃になると、ボクは決まってある詩を思い出す。
その詩を思い出すことで、なんというか「感受性豊かに生きる」みたいなことを思い出したりする。「詩的・文学的に生きる」「ゲージツを意識して生きる」みたいなことも思い出したりする。つまり、いつもは忘れているわけですね。サラリーマンとかしていて、そういうことを忘れずに生きていくのは難しい。毎日毎日、売上前年比がどうの経常利益がどうのみたいなことに振り回されていると、そういうことって別世界のことに思えてくるのだ。
で、秋になり、この詩を思い出すたびに「あぁボクはなにか大切なことを忘れて生きているよなぁ。それじゃいけないよなぁ」と反省されるわけ。そんな胸チクな詩が、今回のオサニチの言葉。



 カチリ
 石英の音
 秋



作家・井上靖の友人が中学二年のときに詠んだ詩だそうだ。
井上靖は友人から見せられたこの詩に非常に影響を受け、柔道一直線だった毎日から詩作・文学の世界に入っていく。たぶん「詩とは何か」が瞬時に理解されたのだろう。その表現力の素晴らしさに感銘を受けたのだろう。そして、ボクみたいに忘れてしまわずに、大事に大事に言葉を紡ぐ生活に入っていくのだ。


レベルは違うが、ボクもこの詩にはかなり影響を受けた。
実に簡潔な三行詩。俳句より短いのにこの広大さはどうだ。「カチリ」「石英の音」「秋」このみっつの言葉だけで、形容詞も使わずに実に広い世界と、秋という季節の空気感、そして作者の感慨まで詠みきっている。詩とか文学とかいう言葉の芸術って、絵画や写真や映像よりずっと奥深いのではないか、と、高校生だったボクは驚嘆したものだ(唯一音楽だけには負ける気がするが)。


ボクの秋のイメージは、この詩に描かれている澄んだ空気そのもの。カチリという鋭角的な音が遠くまで濁らず響いていくような清涼な空気感が、ボクにとっての秋なのだ。
石英は火打ち石にも使ったので、このカチリは火打ちの音かもしれない。夜ごと冷え込んでくる秋を火打ち石で火を起こす行動で表現したものかもしれないが、そういう事実よりも、「カチリ」というカタカナ三文字で表現されたこの清涼な空気感こそ、ボクにもっとも大きな影響を与えたのである。言葉ってすげーって。
これからも秋になるたび、この詩を思い出し、胸をチクチクさせるであろうボクなのである。


ちなみに、後年、井上靖の詩集「北国」のあとがきを読んで、その友人の名が藤井寿雄さんということを知った。その後何をしたヒトか知らないが、彼が亡くなってもこの三行詩はこうして長く生き続ける。無名のヒトが残した詩が生き残っていくこの感じも、ボクがこの詩を好きな理由のひとつかもしれない。




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