ふと気がつくと、昨日と同じような一日を送っている。
昨日と同じように会社に通い、昨日と同じようにテレビを見、昨日と同じようにビールをグビる。
生活のためとはいえ、そんな毎日を送って老いぼれてくのはゴメン、だよね?

同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激。

機械的な毎日に人生を牛耳られないために。「オサニチ」。連載中。

 


第19回「オサニチ的胸にチクチクくる言葉(その7)」(2003年9月)


外食が好きである。

95年くらいからウェブサイトに行った店の記録をつけているが、ここ8年で1500店ほどの新規店を開拓してきた。1年約200店弱の新規開拓。何度も通っている店もあるから、1年で250店くらいは外食しているかも。既婚サラリーマンとしては多い方なのだと思う。

ただ、食通とかいうのとは少し違う。
食通たちはひたすら味を追求する。ボクは単に「楽しさ」を追求する。味がいまいちでも会話が楽しくなるようなお店は好きである。逆に、味はピカイチでも店員の気分が悪い店は嫌いである。ボクにとって外食は、本を読んだり音楽を聴いたりスポーツしたりするのと同じレベル。人生の時間を楽しくしてくれる一手段にすぎないのだ。いい本やいいCDやいい映画と同じような感じでいい時間を過ごさせてくれるお店を、ひたすら探し歩いているのである。

たぶん、カラダを壊さない限り、外食とは一生つきあっていくと思う。で、一生つきあう限り、それなりに展望は持ってきたつもりである。
20代は、うまい店まずい店問わず、とにかく数をこなして世の水準を知ること。そのために若さと有り余る時間を使って経験値を増やした。30代は、一流を知ること。独身の資金力を活かして背伸びすること。分不相応な一流店でなるべく食べた。
そして、今、40代。40代は自分を掘り下げる時期と捉えている。自分が好きな分野を、なぜそれが好きなのかを含めてもっともっと深く知ること。いままでは新規店開拓が多かったが、少しずつ同じ店に通うことが多くなるはずである。

で、これから50代60代が待っているのだが、ボクが理想とする食べ方がある。それが今回のオサニチ的胸にチクチクくる言葉。山口瞳の名文句である。

 


九段下寿司政のシンコを食べないと、私の夏が終らない。

 



他に「銀座鉢巻岡田の鮟鱇鍋を食べないと冬が来ない」「銀座鉢巻岡田の鰹の中落ちを食べないと夏が来ない」「銀座鉢巻岡田の土瓶蒸しを食べないと私の秋にならない」なども彼は言っている。

読書で言ったら再読味読のたぐいであろうか。
ただおいしい味を楽しみに店に行くのではなく、自分の人生の句読点として、その店の変わらぬ味を楽しむという食べ方である。「人生の句読店」と名付けたい。


これがほぼボクの理想とする食べ方の終着点なのである。
さんざんいろいろ食べた末に、こういうシンプルな構造に行き着いた感じが特によい(ほとんど遍歴をせずにこういう言い方をしている人がいるが、それは最悪)。

ちょっと困っているのは、バブル期以降、長く続くような店が極端に減ったことだ。新自由主義的もうけ重視に毒されたのか、目先の利潤を追う店が増え、「この店、20年後にあるかなぁ」と不安に思うような店が増えたのだ。
多大な食べ歩きの末に見つけた、ボクの人生にとっての「句読店」が、すぐになくなってしまうのではたまらない。ひとつ前のオサニチに書いたように、人生100年時代が来るとしたら、あと60年。それだけ長続きしてくれる「句読店」がどれほどあるだろう。

それだけが不安なボクなのである。




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