ふと気がつくと、昨日と同じような一日を送っている。
昨日と同じように会社に通い、昨日と同じようにテレビを見、昨日と同じようにビールをグビる。
生活のためとはいえ、そんな毎日を送って老いぼれてくのはゴメン、だよね?

同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激。

機械的な毎日に人生を牛耳られないために。「オサニチ」。連載中。

 


第14回「オサニチ的胸にチクチクくる言葉(その2)」(2003年4月)

 


さて春だ。春は眠い。とにかく眠い。世界がどうなろうと、ひたすら眠い。


春眠暁を覚えず、と書いたのは唐の詩人、孟浩然。この詩のおかげで「春眠」は春の季語になったのだが、もっとだらしなく「朝寝」まで春の季語だったりする。くくく。朝寝が季語になる季節って、って感じだよね。

ちなみに春が眠いのは生理学的にも証明されているらしい。
人間を年単位で見ると、春から夏は活動期、秋から冬は休息期になるという。それを1日に当てはめると、

 春・・・朝
 夏・・・昼間
 秋・・・午後〜夜
 冬・・・深夜

ということらしいのだ。


そう、つまり「春は朝」。休息期から活動期に変わる端境期。つまり起きたてなのね、そりゃ眠かろう。

ちなみに「芸術&読書&食欲の秋」は午後〜夜。なるほど、静かな夜は芸術活動も読書もはかどるし、第一ディナータイムである。食欲満開も無理はない。なるほどな〜。
こうやって考えてくると、「冬は深夜」なのだから春より眠いはず、とも思うが、単純に「休息期」なのだろう。静かに不活動でいる時期なのだ。強烈な睡魔、という意味では起きたてである春の方が強い。


で、今回はレオナルド・ダ・ビンチが言ったとされる言葉から。

 

おお、惰眠は死に似ている。

 

うはは。イヤな言葉だねぇ。

出典は忘れたが、学生時代からボクの心にこびりついて、いまや強迫観念にまでなっている言葉である。
たしか「なぜみな惰眠をむさぼるのだろう。おお、惰眠は死に似ている。死んでからいくらだって惰眠はできるではないか」みたいな意味の文章だった記憶がある。超マルチ人間のダ・ビンチに言われると言い返す言葉もない。はい、おっしゃる通りです。


ボクは放っておくとすぐ惰眠に走るタイプである。疲れるとすぐ横になろうとする。休日の朝の二度寝を最大の極楽と考えている。だいたいわが母の口癖が「寝るほど楽はなかりけり」であった。そりゃ惰眠好きでも仕方あるまい。ほとんど刷り込みされている。


でも、ベッドに倒れ込もうとするたびに、この言葉が胸にチクリとトゲを刺す。


睡眠は必要だ。疲れきってカラダが悲鳴を上げている時ならなおのこと。でも、いわゆる「惰眠」は死んでいるのとあまり変わらない。起きて何かしようよ自分。生きているうちは人生を最大限活用しようよ。与えられた生の時間は限られている。死んでから未来永劫惰眠できるのだから、いまそれをすることはない。


春は眠い。そして惰眠は気持ちいい。春の惰眠は人生最大級の快楽である。
でも、やっぱり起きて、何かしよう。死んだら絶対「何もできない」のだから。


ちなみに、同じような言葉にフランクリンの「墓に入れば眠る時間はたっぷりある」というのもある。これまたイヤな言葉であるが、勤勉の権化であるフランクリンに言われると、これまたその通りとしか言いようがない。はい、おっしゃる通りでございます。





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