ふと気がつくと、昨日と同じような一日を送っている。
昨日と同じように会社に通い、昨日と同じようにテレビを見、昨日と同じようにビールをグビる。
生活のためとはいえ、そんな毎日を送って老いぼれてくのはゴメン、だよね?

同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激。

機械的な毎日に人生を牛耳られないために。「オサニチ」。連載中。

 


第13回「オサニチ的胸にチクチクくる言葉(その1)」(2003年3月)

 


オサニチも連載二年目を迎え、ちょっと趣向を変えてみたい。
「同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激」というコンセプトはそのままに、おさまりがちなボクたちの日常をチクチク刺激してくれる言葉を毎回取り上げていこうと思うのだ。

で、第一回目は、作家の開高健が好んで色紙に書いた言葉から。

 


明日世界が滅びるとしても、

今日君はリンゴの木を植える。

 


アメリカ-イラク戦争前夜の今、この言葉を胸にチクチク刻んでおきたい。

約10年前、30代アタマにこの言葉に出会ったとき、「なぜリンゴ?」とか頭の隅で思いつつ、ちょっと足が震えたのを覚えている。その世界に対する希望の真っ直ぐ加減に。そして「自分が世界のためになにかをしても結局無力なのだ」と、一縷の希望すら見ないフリして生きている自分のずるさ加減に。


今ボクは自分が無力だということを知っている。
たとえばボクが「アメリカ-イラク戦争反対!」って渋谷で叫んだって世の中何も変わらない。何の影響もない。国際的に発言力ゼロである極東の小国のひとりのサラリーマンが自らの身の安全を確保しながら何かグダグダ叫んでも、世界は聞く耳持たんのだ。無力だ。叫ぶだけ損だ。無関心なふりして黙って生きていこう。だいたいこの忙しいのに変なこと考えている暇はない。世の中なるようになる。そんなことより早く明日の企画書仕上げなきゃ…‥

でも。そんなとき、開高健のこの言葉がチクリと胸にトゲを刺す。

ひとりひとりの一見無力に思える行為の積み重ねが、実は世界を救うのかもしれない、そういう希望を簡単に捨ててはいけないのかもしれない、ボクは無力かもしれないが少なくとも一本のリンゴの木を手に持っているではないか。なぜ植えないのか、と。

戦争に限らない。環境問題にしろ何にしろ、ボクたちは実に無力である。極東の小国の隅っこで毎日せこせこゴミの分別したからって、オゾンホールの拡大は止められない。

でも、リンゴの木を植えるのだ。自分ひとりでもいいから、今日、リンゴの木を植えるのだ。

ちなみにこの言葉、元はマルチン・ルター(ほら、教科書に出てきた、宗教改革をしたあの人)の言葉で、正確には「世界が明日破滅に向かおうとも、今日私はリンゴの木を植える」と言ったらしい。「私は」を「君は」と変えただけで、文章が詩的になり説得力と普遍性が格段に増すんだなぁと感心したりするが、それはまた別のお話。




satonao@satonao.com