ふと気がつくと、昨日と同じような一日を送っている。
昨日と同じように会社に通い、昨日と同じようにテレビを見、昨日と同じようにビールをグビる。
生活のためとはいえ、そんな毎日を送って老いぼれてくのはゴメン、だよね?

同じ顔した毎日に、ほんの小さな無理ない刺激。

機械的な毎日に人生を牛耳られないために。「オサニチ」。連載中。

 


第11回「デジカメ付ケータイで日常を撮りまくる」(2003年1月)


昔の写真アルバムとか眺めていると空しくなることがある。
旅行地の写真しかないのだ。ガイドブックに載っているような景色の中でニコヤカにピースしていたりするお馬鹿な表情しかない。ボクの人生とは「○歳のときはどこそこに旅行に行きました」っていうことの連続でしかないのだろうか? 「ガイドブックに書いてあるとおりキレイだったです」と実際に確認する作業の連続でしかないのだろうか?

そう、不思議なほど日常が写っていない。
どういう学校にどういう通学路で通い、どういう食事を食べ、どういう友達とクラブをがんばり、どういう仲間と毎晩飲み、どういう恋愛をし、どういう環境で仕事をしてきたか、まったくアルバムに残っていないのだ。ボクの人生は旅行地のみなのか。

アラーキー(写真家・荒木経惟)は以前こう言った。
「インターネットって俺ぜんぜんわかんないんだけどさ、自分の日記を公開する奴が増えているんだって? みんなやっと気付いてきたんじゃないかな。一番大切なもの、面白いことは日常にあるんだってことにさ」

そう、日常こそ一番大切で、一番面白い。つか、日常こそ人生だ。写真が芸術媒体である一方で「記録媒体」であるならば、日常こそ切り取られるべきものなのだ。

なのにボクたちは旅行に行ったときとかの「非日常」しか写真に撮ってこなかった。もちろん、昔は日常的にカメラを持ち歩かなかったということもある(マニアを除く)。カメラを持ち歩くこと自体が「非日常」だったから仕方ないとも思う。

でも、状況は劇的に変わった。

デジカメの普及も劇的だったが、デジカメ付携帯電話の普及は根本的変革だ。家でも外でも必ず持っている携帯電話にカメラがついたのだ。そしてもちろん現像料はタダ。しまっておく場所も(PCに転送すれば)ほぼ無限。他人との交換もワンタッチ。つまり撮り放題で交換し放題なのだ。有史以来これほど写真が身近になったことはない。

写メールでもishotでもいい。手持ちのデジカメ付ケータイでどんどん日常を映してみよう。アングルなんか考えなくていい。ただただ撮り続ければいい。

日常を撮り始めると、これが実に面白いものだとわかる。なんでもない日常にいろんな発見も出てくる。若者の恋愛遊びだけに利用させておくのはもったいない。いい年したオジサンオバサンよ、デジカメ付ケータイで日常を再発見しどんどん楽しもう。あなたの日常(=人生)もそんなに捨てたもんではない、ということが撮り始めた初日にすぐわかる。あなたの日常は実に面白い。

アラーキーはこうも言っている。
「いい写真が撮れない奴っていうのは、写真が下手っていうよりも人生が下手なんだ」

あんなオッサンにそんなこと言わせておいていいのか?
日常を撮りまくろう。人生を楽しもう。写真は日常の大切さ・楽しさを発見する手段として実に有効だ。利用しつくしてやろうではないか。




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