読書

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読んでは寝、寝ては読み

2008年04月28日(月) 6:57:40

昨日はクスリを飲んでビタミンCも大量にとって、暖かくしてベッドで安静。風邪初期のうちに1日で治そうとかなり真剣に風邪と闘う。おかげでたぶん治った。あぁでも「風邪で倒れる」というのも甘美な誘いだったな。久しぶりに寝込みたい欲望がある。治っちゃったけど。

安静の友は、マルクス・アウレリウスの「自省録」。いしいしんじの「ぶらんこ乗り」。小林聡美の「ワタシは最高にツイている」。読んでは寝、寝ては読み。どれもいい本だったので夢見がよい。後者ふたつはサササと読めたが、「自省録」は味読系なのでまだまだ時間がかかりそう。この手の小難しい本は高校時代に見栄はってたいてい読んでいるのだが、50歳を前にしたイマじゃないとわからないことばかりなのは自明。あの頃どんな顔して読んでいたんだろうオレ。高校時代に読んで理解したフリをしていたあれらの本は、結局成長の役に立っているのかな。

夕方から起き出して、翌朝までにどうしても仕上げないといけない企画書にとりかかった。
3時間くらいで出来ると思っていたが、あれやこれやで5時間強。7割がた出来たところで時間切れ。バージョンアップしたパワーポイントに慣れなかったのも大きい。すぐ固まっちゃうし。相変わらずだなMS。こんなことならKeynote(マックのプレゼンソフト)を使えば良かった。ぶつぶつ。

企画書作りは得意なはずなのだが、ここ数ヶ月、どうもしっくり来ない。
「明日の広告」を書いてから、少し構成に変化が出てきて、それがまだ自分に馴染んでいないのだ。本を書く作業って自分の考えをクリアにまとめる過程だから、きっと何かがボクの中で結実しているのだろうけど、その結実が逆に企画書をまとまらなくしている感じ。どこかに何か欠けているピースがある。それがまだ見えてこない。

そんなこんなで、またしてもメールのお返事が溜まってます。少々お待ちくださいませ。

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銀色夏生著「子どもとの暮らしと会話」

2008年04月22日(火) 7:31:55

子どもとの暮らしと会話 (角川文庫 き 9-65)「子どもとの暮らしと会話」。久しぶりの銀色夏生。題名がえらくストレート。詩ではなく、子供たち(中2と小2)との会話、そこから派生するいろんな想いを綴った本。

銀色夏生の「心の自由さ」に軽く打ちのめされる。
これは容易に手に入れられるものではなく、「心を自由であらせようとする瞬間瞬間の努力」を毎日毎時間毎分毎秒積み重ねていった結果であることはボクも知っている。だからこそ彼女は詩人であれるのだし、それは実に得難いことなのだが、でも「欲しいな」と無理を思った。これを手に入れるのにサラリーマンであること(つまり外部環境)は障害にならない。心のありようだから。でも、長い間にできあがってしまった自分の心の枠を取り払うのは、内臓にこびりついた脂肪を取り除くのよりだいぶ難しい。小さな努力と習慣の積み重ね。これに比べりゃダイエットなんか楽勝。

収めてあるいろんな会話がとても魅力的だ。
そうなんだよなー。子供との会話ってこうやって遺しておきたいものがいっぱいあるよなー…。日常の小さな小さな出来事と共に。
一方で銀色夏生が子供の性格を平気で「嫌い」「たえられない」「早く遠くへ行って欲しい」とか公に発表しちゃう(書いちゃう)のにもドキドキする。自由すぎない?(笑) でもそういう表現のおかげで、読み終わるころ、子供を上から目線で見ない彼女の姿勢が読者にうつり、自分たちも対等な地平にいるのを自覚する。フラットな目線の獲得。ここらへんは銀色夏生の真骨頂。レストランの食事が豊かな時間と栄養を与えてくれるように、彼女は新しい目線を提供してくれる。詩人というのは尊い仕事だな。

会話やエッセイだけでなく、写真やイラストも面白い。それらを丹念に拾って心に収めていると意外と時間がかかる。1日で読めるかな、と思った本だが、3日もかかってしまった。どっか田舎でゆっくり読むべき本かも。

この本をくれたのは遠くに行く友人。
くれた理由は理解したよ。ありがとう。気をつけて。

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「と村」と「戸村飯店」

2008年04月05日(土) 14:12:10

ずっと行きたかった「京料理 と村」へ。
派手さはないが滋味溢れ、シンプルな中に奥深さがある料理群。このわたの茶碗蒸し、京茄子の焚き物、そして寒もろこに参った。特に寒もろこ。絶品であった。全体にある程度食べ慣れた人に向いている店かな。価格的に安くはないので、それなりに余裕がある熟年向きだ。ボクにはもう十年早い感じ。

京都「嵐山吉兆」で13年修業した戸村仁男さん(実は千葉外房生まれ)は、一見気むずかしそうに見えるが、とても饒舌な方で、食材の話やレシピの話、修業の話などになるとニコヤカによく話される。

彼は青森の赤石川(天然遡上)に毎年鮎を釣りに行くそうで、鮎釣りを趣味のひとつとするボクとしばし友釣りの話で盛り上がった。
というか、東京に転勤してから鮎釣り行ってないな。世界最高に面白い釣りだと思うのだが、川が近くになんぼでもある関西に比べて、東京は相当遠くに行かないとおいしい鮎がいる川がない。でも戸村さんと話しているうちにふつふつと鮎欲が蘇ってきたので、今年はなんとか時間を作って行きたい。7月かな。どっかの土日をなんとかあけよう(無理かもしれないが)。

戸村飯店青春100連発戸村と言えば、瀬尾まいこの新作「戸村飯店 青春100連発」(理論社/1500円)をちょうど同じ日に読んだ。そんなに多くない名字なのに偶然。戸村の日。

瀬尾まいこって高校生の気持ちを書かせたら天下一品である。戸村飯店の二人の兄弟の桎梏と解放が明るい筆致で描かれている佳作だ。
今回はナチュラルな大阪弁も炸裂しており、エセ大阪弁を操れるボクとしては楽しくも懐かしい(東京の人には違和感あるかも)。大阪弁の小説ってわざとらしいのが多いのだけど、この本はまったくそれを感じさせない。しかも東京と大阪の空気の違いが明確に描かれており、その点も愉快。

100連発というと吉本の名作「ギャグ100連発」を思い起こさせるし、わりと疾走感&炸裂感がある題名だと思うが、この前紹介した「仏果を得ず」と同じく、題名で少し損していると思う。疾走感&炸裂感というよりは、普通に温かくてさわやかな青春小説なのだ。少しキワモノに見えてしまうし、はしゃぎすぎに見えてもしまうかも。

でも、この兄弟、どっちも好きだなぁ。特に弟は名作「幸福な食卓」の大浦勉学くんみたい。いいキャラだ。読みやすい分、少し損をしている作家であるが、ボクはこの読みやすくさりげないところが好き。

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三浦しをん著「仏果を得ず」

2008年04月03日(木) 8:06:18

仏果を得ずすっかり「ちりとてブログ」になりつつある昨今だが、ワールド的にとても近い本を読んだのでご紹介。三浦しをん著「仏果を得ず」(双葉社/1500円)。「ちりとてちん」が好きな方ならたぶん好き。といっても小浜家族編ではなく大阪草若一門編の方だけど。

この本は落語ではなく、文楽(人形浄瑠璃)の義太夫を題材にしている現代劇。
義太夫語りは落語「寝床」でも取り上げられるけど、その義太夫節を修行中の若者のお話である。古い芸能を伝承していこうとする若者たちが等身大で瑞々しく描かれている。毎章、テーマとなる文楽の解釈に悩みながら成長する主人公がなかなか魅力的(ある意味これも本歌取り)。知らなかった世界を楽しく知れる、という意味でも、純粋に小説としても、なかなかいい本である。

文楽は去年初めて観に(聞きに)行った。
普通初心者は人形遣いのそのリアルさに関心が向くらしいが、そのときのメモでも書いたように、ボクは最初から義太夫に目が釘付け。人形をあまり見なかったくらいである。竹本住大夫と豊竹嶋大夫。すごかったなぁ。
そういうこともあってか、この本の題材である義太夫は多少身近で、銀大夫の語りなども目に浮かぶようであるし、三味線とのやり合いなども十二分に楽しめた。義太夫語りの舞台裏を楽しく知れるのもうれしい。文楽が急激に身近になる。

とはいえ文楽をまったく知らない人でも楽しめるので大丈夫。読後、きっと文楽が観たくて観たくてたまらなくなること請け合いだ。この本は文楽ファンを急激に増やすだろうなぁ。

全体にさらりと読みやすく、多少漫画チック。というか連続ドラマっぽい(笑)。イケメンを配役すれば充分ドラマ化にも耐えうる内容。
惜しいと思うのは主人公の背景描写がさらりとしすぎている部分。「ちりとて」で言ったら小浜家族編的な部分がほとんど描かれない。その分シンプルにストーリーを楽しめるのは確かなのだが。
それと題名。読み終わってからだと「なるほど」と思うのだが、これは取っつきにくすぎる題名かも。表紙を漫画にするなど、文楽という一般ウケしにくいテーマの本を読者が手に取りやすい工夫はしてあるのに、題名が抹香臭くて一瞬「難しい本か?」と手が止まってしまう。ちょっと残念。

「ちりとて」ファン的には、「この役は加藤虎ノ介しかできん!」という、きわめて四草なキャラが重要人物として出てくるのでお楽しみに。

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文庫解説本、出ました

2008年02月12日(火) 17:54:38

文学的商品学 (文春文庫 さ 36-6)去年の11月末にもお知らせしましたが、斎藤美奈子著「文学的商品学」の文庫本「巻末解説」を書きました。先週末くらいから書店に並び始めたようなのでお知らせします。文春文庫から630円(税込)です。

基本的に他人様の本なんだけど、そこにボクが書いた文章が載っているという不思議な感覚。書店でこの本が平積みされているのを見たとき、なんだか「自分の子供じゃないけど、自分の子供と同じくらい可愛い♪」みたいな、屈折した歓喜を感じた。しかも斎藤美奈子さんの本。光栄至極。

書き終えてからもう3ヶ月かぁ。切れ者・斎藤美奈子さんの解説をする、というプレッシャーに悶え苦しんだあの頃。でも高い山ってひとつ越えるたびに確実に新しい地平が開ける。そういう実感はあるかも。

これを書いたのはちょうど「明日の広告」を書いている最中で、広告の諸相について熟考していたこともあり、この解説でもその土俵に引っ張り込んで書いています。斎藤美奈子さんの文芸評論を広告やネットに例えて分析したもの。書店で見かけたらお手にとってみてくださいませ。

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寝たー

2007年12月21日(金) 8:27:57

いやぁ寝た寝た。寝たなぁ。久しぶりに丸一日だらだらと寝た。おかげで少し回復したかも。

起きてる間は「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」を読んだり(まとめサイトはこちら)、PS2の「ドラゴン・クエスト5〜天空の花嫁」を引っ張り出してきて久しぶりにやったりした。風邪ひくとどうしてドラクエがしたくなるのかは謎。それも古いのがしたくなる。スーファミでドラクエ3とかやろうと思ったくらいな勢い。ボクにとってはほとんどパブロフ状態なゲームだ。

10月11月と本を書いていた間は、他の本はほとんど読まなかった。
自分で拙い文章を書いている間って、他の本を読むと自信なくなったり影響受けちゃったりしてあまりよろしくないからほとんど本を読まないのである。で、その空気がまだ自分の中に残っていて、読書欲がここんとこあまり起きない。昨日もそうだったな。いつもは風邪のときって十冊くらい読んじゃうのに、昨日は沢木耕太郎の「246」と光文社古典新訳文庫のカントを少し囓っただけ。まぁカントはほとんど睡眠薬代わりだったのだけど(でもこんなわかりやすいカントは初めてだ)。

光文社古典新訳文庫は「野性の呼び声」とか「ヴェネツィアに死す」も読んだ。中学時代に愛読した本を新訳で読める幸せ。中学高校時代に超背伸びして読んだ古典たちを40代中盤に読むと、当時まるで理解していなかったであろう深い部分が読めて面白い。いや、当時も当時なりに意外と理解していたのかもしれないけどな。それにしてもあの頃は読書力(難しくても分厚くても本を読み通せる暴力的なチカラ)がすごかった。今は衰えを感じる。この年末年始はカラマーゾフに挑んでみるか。

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斎藤美奈子さんの文庫巻末解説

2007年11月26日(月) 7:58:50

昨日、がんばって文庫の巻末解説を脱稿した。
まだ完全オーケーは来てないけど、マネージャーも「おもしろい!」と言ってくれたし、一応峠は越えた模様。うぅ。マジできつい峠だった。でも峠の上からの景色はすがすがしい。

「文庫の巻末解説って、もしかして○○さんのですか?」と、いろいろ推理したメールをいただいたが全部ハズレです。別に隠しても仕方ないからお教えするけど、斎藤美奈子さんのです。「文学的商品学」文春文庫。本が好きな人なら「えええええっ!」と驚愕してくれると思う。ボクが悩みまくったわけもわかってくださると思う。そう、あの、世に「毒舌文芸評論家」と怖れられている切れ者、斎藤美奈子さんの「解説」をするという神をも恐れぬ仕事を、魔が差して受けてしまったのである。

ちょうどオファーがあったころは10月初旬。今度1月に出す本の執筆最高潮のころで、なんとなく「あ、400字詰め原稿用紙で10枚程度ですか、それなら書けるかも」と、分量で判断してしまった。10万字という果てしないものを書いているときって、勢いもあってかそういう錯覚が起きやすいのかも。もちろん「斎藤美奈子かぁ…。大好きだけど、解説は無理っ」と心の中では思ったのだが、オファーをいただいたマネージャーとお会いして話しているうちに「でも4000字程度なら3時間集中すればいいし、3時間ならなんとかなるかなぁ」とか、内容以前に物理的な方向になぜか心が行ってしまったのである。いま考えてもおかしな精神状態。順調にザザザと書ければ3時間だけど、悩んだら30時間かかってもおかしくない分量だ。

で、結果的にそのくらい時間をかけてしまったわけですね。
それにしても、なぜ受けた、自分。なぜわざわざこんな苦行に身を投じる。

たぶんいろんな方が恐れ多く思ってこの仕事をお断りした挙げ句、ボクにお鉢が回ってきたのだろう。題名が「文学的商品学」なので、広告を本業とするボクなら新たな切り口で書けるかもとマネージャーが思ってくれたのもあるかもしれない。でもなんつうか、ただひたすら恐れ多い。そのビビリから抜け出して書き始めるまでに一週間近くかかってしまった。

ちなみに「おもしろ本」を見てみると、過去に三冊だけ読んでいる。
今回、過去の作品を全部いただいて通読させてもらったけど、んー、彼女のナイフの切れ味にかなう解説は書けないと心底悟った(当たり前だ)。とにかく自分らしく自然体で、と、言い聞かせて、ここ1週間、しこしこ書いていたのだけど、書く内容は先週なんとなく決めたものの、最初の一行が出ず、ずっとモンモン。昨日一気に書けたから良かったものの、昨日ダメだったら蟻地獄から出られない予感があった。あぁ書けて良かった。

でも、今後はもっと身の丈にあった仕事を慎重に受けることにしようと思います。

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アル・ゴアにノーベル平和賞

2007年10月14日(日) 17:11:44

長くボクのこのメモを読んでくださっている方は、ボクの地球温暖化問題についてのスタンスは「ニュートラルよりも多少『そうでもないんじゃないの?』派に傾いている辺り」にあることはわかっていただいているかもしれない(こんなのとかこんなの)。

地球温暖化が問題であることにはまったく異を唱えない。でもそこまで優先順位が高いとは思っていない。ロンボルグ池田清彦には共感を覚える。

また、アル・ゴアのプロパガンダ(あえてそう言うが)も否定しない。アメリカ人は一般に環境問題に無関心すぎる。多少行きすぎた警告も必要かもしれない。人為的理由で温暖化が進んでいるという危機意識を世間一般に広めた功績もあるとは思う。

でも、プロパガンダにノーベル平和賞はあんまりな気がする。プロパガンダにお墨付きを与えると、またぞろ「オフィシャルな正論ざます!」と威張る人たちが大量発生しそうで怖い。

アル・ゴアのノーベル平和賞受賞について、ロンボルグがコメントを出した。日本語訳はこちらのブログにある。
ゴアの映画「不都合な真実」に科学的な誤りが9カ所あると英高等法院が指摘したことは数日前の新聞に書かれたので読んだ方も多いかもしれない。

ま、ロンボルグも正論すぎるかもしれないが、やっぱりボクはこっちのスタンスに近いかな。

地球温暖化について懐疑的に書くとすごい勢いで怒りのメールが来たりするんだけど、とりあえず上に上げた両者の本くらい読んでからにしてくださいませ。

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安倍首相辞任

2007年09月13日(木) 7:30:13

すさまじく悪いタイミングだったとは思うが、ボクはなんだか責める気にならない。
「男」としてよっぽどのことだと思うからだ。
本当に、本当に孤独だったんだろうなと思う。あと、もう少しやっていたら「取り返しの付かないこと」が起こっていたのではないか、とも想像する。「政治家安倍」に対してはその辺を同情はしないが、「人間安倍」に対してはいたく同情する。お疲れ様でした。

今日発売の「週刊文春」に書評を書きました。
魚柄仁之助著の「冷蔵庫で食品を腐らす日本人」。どっかで見かけたら見てみてください。

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二度寝前の深夜メモ

2007年07月27日(金) 2:15:31

疲れが溜まっているのが自覚され、昨晩は残業もそこそこに帰宅。ご飯を食べて21時前には就寝。あっという間に寝付いたのだけど、午前2時には目が覚めた。ダメじゃん。というか5時間は寝てるのか。でも疲れがとれた感じはしない。もう少し寝ないとなぁ。ちょっとネットしたら二度寝(?)しに行こう。

北方「水滸伝」は四巻を読み終わった時点で止まっている。いや、なんつうか、面白すぎて。出てくるキャラがどれもこれも魅力的すぎるのだけど、どうも五巻以降、主要キャラに死の試練が起こり始めそうで読み進めるのが怖いのだ(笑)。最相葉月の「星新一」に浮気したり、池田晶子の最新刊(にして遺作系)の「暮らしの哲学」「人間自身」をゆっくり読んだりして先送りしている。

もろもろバタバタすぎて、関西のおいしい店リストのリニューアルや東京のリストの更新が滞っているのが気になっている。東京のリストも新規開拓が50軒くらいあり、早くまとめてしまいたい。地方の行った店も100軒くらい書いていない(というか元々リニューアルが終わっていない)。でもこの仕事状況からするとなかなか厳しいかも。

仕事は、コミュニケーション・デザインという分野において、ここ数年でずいぶん成長というか視点が上がった気がする。自分の中にようやく揺るがない基準が出来てきて自信がついた感じ。いろいろやっているうちに視点が高くなり、部分から全体に俯瞰がきくようになった。いままでも俯瞰していたつもりだけど、少し高さが足りなかったことに気づいた。やっぱ経験値とか仕事量とか過去にやったことの咀嚼って大事なんだなぁとかいまさらながら。

ところで、どなたかセンスのいい表装店、ご存知の方いらっしゃいませんか? 隈取を額にしたいのですが。

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うめめ

2007年07月18日(水) 5:48:27

娘さん、写真部なのに普通のデジカメでいいんですか? とご質問いただいたけど、いいんです。というか、Caplio R6は「普通」ではないし。多機能高級コンパクト・デジカメ。超接写1cm・広角28mm・光学ズーム7倍と、今ここまでボクの欲求を満たしているデジカメは他にない。CASIOのEX-P600とメイン・デジカメの座を争う予定(娘に買ったのに自分も使う気でいるらしい)。

いや、たぶん「写真部なら、デジカメではなくて、もっと凝った銀塩カメラの方がいいのでは?」という趣旨の質問だと思うけれど、それもいいんです。というのも、アラーキーに始まり、HIROMIXと来て、なんつうか、安いコンパクト・カメラでも「いい写真が撮れる」のがよくわかったから。つまりデジカメでもなんでもいい。要は撮る人の視点なんだな、って。

そして、最近「うめめ」という秀逸な写真集に出会い、その思いを強くした。

2006年度木村伊兵衛写真賞を受賞した梅佳代という人が出したファースト写真集。
この写真集がイイ。とてもイイ。本屋でちょっと立ち読みして即買い。どの写真にも右下に日付が焼き付けてあるので、たぶんコンパクト・カメラで撮ったのだと思うけど、写真は結局技術じゃなくて視点だなぁ、ってあからさまに教えてくれる。まぁ、「うめめ」=梅目、という題名からして視点の話なのだけど。でもそれにしても一見素人写真との境がわからないところがすごい。

もちろんさりげない撮り方でもそこに技術の裏付けがあるのだろうけど、でも、よく、玄人はだしのオジサンとかが撮る凝った花の写真とかあるじゃん? そういうのにあまり魅力を感じないように、技術が勝った写真って心に響いてこない気がするな。やっぱそこになにか「その人が発見した世界の新しい見方」がないと。

ま、芸術はどれもそうだし、商品や広告やサービス、そして普通の会話ですら、それがないと魅力的ではないのだけど。
会話の延長でいえば、例えばお笑いが面白いのは芸人が世界の新しい見方を提供してくれるからだし。我々は思っても見なかったモノの見方に笑うわけで。そういう意味では長年テレビのトップで活躍している一部の芸人・タレント・司会者などは、常に新しい見方を提供しつづけてくれているからスゴイのだと思う。尊敬に値する。でもそれを提供しなくなった途端に飽きられてしまうだろうから、厳しい世界だなぁ。って、話が大幅にズレちゃったけど。

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ヒジ

2007年07月11日(水) 7:14:36

ここ1週間、右肘の調子がおかしく、曲げ伸ばしに苦労している。
右手の指もうまく力が入らず、重いものを持ち上げられない。重いものどころか、珈琲カップですら持ち上げるのに苦労する。飲むときに「アイタタッ」となる。ヤな感じ。

原因はふたつ考えられる。
ひとつは nintendo DS。仰向けに寝っ転がってやることが多いのだが、長時間肘を曲げたままというのが良くないのではないか。んでもって、右手はボタンを押しまくる。左手ではなく右手が痛いというのはこのボタンのせいではないか。とか思ってしばらくDSを控えているのだが、いっこうに良くならない。

あ、そういえば、Wiiのドラクエが明日発売だ。
このクソ忙しいのに迷惑な話だ(笑) つか、剣を振ってモンスターを倒していくWiiのドラクエをこの肘で出来るかどうかが微妙。

原因として疑わしいもうひとつはアイン・ランド著「肩をすくめるアトラス」。
二段組み1263ページの分厚い本を同じく仰向けに寝っ転がって読んでいると、右手も左手も肘は長時間曲げっぱなしで重い本を支えることになる。右手はページめくりもする。ふと気がつくと右手一本で本を支えて読んでいることも多い。これも匂うなぁ。

あ、そういえば、その「肩をすくめるアトラス」はようやく読了。
早く感想書かなくちゃ。5月の中旬くらいからだから、なんと2ヶ月弱かかったことになる。一冊にここまでかけたのは初めてかも。ちょっと演説とか多くて「水源」よりだいぶきつかった…。

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熊井啓監督

2007年06月05日(火) 9:21:31

ボクがNYに行った前後に何人か亡くなっていて、もちろん石立鉄男はショックだったし、ZARDの坂井泉水や松岡農相にもビックリした。平岩外四や藤原伊織、大庭みな子、ちょっと前だと塩沢とき、北村和夫、池宮彰一郎、横山ノック、ロストロポーヴィチ、ここ数日では羽田健太郎と、このごろ有名な方の死が多い気がする(敬称略)。

でも、個人的に感慨深かったのは5月23日の熊井啓監督の死である。
日本を代表する社会派映画監督である。もちろんお会いしたことはない。でもボクが20歳の時(1981年)に観た彼の映画「謀殺・下山事件」が、いまでもその時の感情を覚えているくらい衝撃的だったのである。のほほんと軟派に生きていた大学時代のボクは、ガツンと一発かまされた感じであった。

戦後史最大の謎と言われる下山事件についてはWikiでも見てもらうとして、その後ボクは矢田喜美雄の原作「謀殺下山事件」を読み、これまた衝撃を受けて下山事件関係の本を読みあさった記憶がある。友人にも下山事件論争を持ちかけたりして、いま考えたら大迷惑なにわか社会派だ(笑)。でも資料を読みあさって戦後史の闇に潜っていったあの時間はとても充実していて、いまでも大学時代のある象徴として思い出したりする。
下山事件関係のみならず、謀略だの謀殺だの戦後の闇だの題された本を自宅デスク周りに積んでいて、親に心配されたこともある(反体制思想にかぶれたと思われたのかもしれない:笑)

社会や政治が一筋縄でいかず、本当に裏で怖ろしいことがまかり通る場合もある、と、薄々気づいていたことを目の前にドウダと提示された初めてのキッカケでもあった(奥手すぎ)。熊井監督には素直に「ありがとうございました」を伝えたい。

ちなみに、経歴を調べていて気がついたが、熊井監督、ボクと誕生日が一緒でした(6/1)。なんだかうれしい。

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訳者からのメール

2007年05月23日(水) 8:15:38

今読んでいるアイン・ランド著「肩をすくめるアトラス」の訳者である脇坂あゆみさんからメールをいただいた。検索で辿り着いたらしい。アンジェリーナ・ジョリー主演で映画化されるという話があり、その進捗を確かめるために定期的に検索をかけているとのこと。

で、まったく気づかなかったのだが……「知り合い」だった(笑)

以前、ある小さなパーティで知り合い、お話ししたことがあったのだった。
普通に会社にお勤めしている方で、この本に出会った衝撃から訳者を買って出たらしい。そういえばパーティで「本を訳したんです。分厚い本です」と紹介され、その時「アイン・ランド? よく知らない作家だなぁ」と思ったのを覚えている。よく知らない本だし、なんだか難しそうな題名だし、しかも1000ページ越えるというし、申し訳ないけど読まないかもなぁ、とかその時思った。うん、思った。

で、全く忘れていて、全然違う方向から「肩をすくめるアトラス」に辿り着いたワタクシ。脇坂さんは逆にそのことを喜んでくれた。いや、ホント、訳していただいてありがとうございます。やはり日本に紹介されるべき本だと思うし、なにより労作(労訳)だ。

脇坂さんも書いていたけど、このアイン・ランドという人と著作に対して、いろんなことを言う人が多い。でもそのほとんどは実際に読んだことがない人だという。確かに政治的・思想的にいろんな読み方が出来る本だし、カルト集団ができてしまって誤解もされてるけど、先入観をもたず、その時の自分の生き方と比べながら素直に読むととても刺激的な本なのだ。って「肩をすくめるアトラス」はまだ読んでる最中だけど。「水源」は少なくともそうだった。

明日からのNY行きに「肩をすくめるアトラス」を持っていくか、まだ迷い中。なにしろ重いからなぁ…。

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ご注意

2007年05月18日(金) 12:27:28

アイン・ランドの「水源」と「肩をすくめるアトラス」に関して、1998年のランダムハウス/モダンライブラリー発表の「アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100」、第1位(「肩をすくめるアトラス」)、第2位(「水源」)とのデータを引用してますが、これ自体は事実なものの、少し疑わしい部分もあるかも、とのご指摘をメールでいただきました。

ボクは本の解説や帯からそのまま引用したのですが、データ元はココ
ランダムハウス/モダンライブラリーの委員会が公式に選定したリストにランドの著書はリストアップされておらず、読者投票ではいきなり1,2,7,8位に4冊がランクインしているのです。
ランディアンとかランドロイドと呼ばれるカルト的ファンがいるアイン・ランドであるので、これは一種の集団投票かもしれません。メールを引用すると「報道された(委員会メンバーの)リストを見て『なぜここにランドが入ってない!』と激昂してお友だちに呼びかけ…といった反響もあったかもしれないですしね」とのこと。その可能性もありますね。あまりに不自然だし。というか、インテリの集まりであろう委員会にはランドは相手にされていない、ということですね。

ということで、この引用データが怪しい可能性があることをお知らせしておきます(繰り返しますがデータ自体は事実です)。
また、アメリカの基礎教養と書きましたが、これも怪しいかもなので、訂正しておきます。まぁ700万部(本の帯より)は事実だと思うので(いまアマゾンで調べたら500万部と書いてあった。どうなんだろう?)、異様な数売れていることは確かですが。

ちなみに、ボクはランディアンにはならないと思います。
「水源」に関しては、主人公のハワード・ロークの姿勢に自分の精神が叱咤激励された、ということに尽きます。そういう意味ではこれからも読み返す本になるでしょう。

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二段組み1263ページ

2007年05月18日(金) 7:32:23

「水源」の根っこの部分に強い感動を覚えたボクは、当然のようにアイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」をアマゾンで注文したのだが、昨日届いたそれは「水源」以上の分厚さ。二段組みの1263ページ。うわぁ。

でも、1998年のランダムハウス/モダンライブラリー発表では「アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100の第1位」だし、1991年の米国国会図書館の調査では「聖書に次いでアメリカ人が人生で最も影響を受けた本」であるという。聖書に次いで、ってスゴイよねぇ。そんな本の初邦訳が「水源」と同じく2004年とは。なんでこんなにアイン・ランドの紹介が日本では遅れたのかな。

※1998年ランダムハウス/モダンライブラリーの発表に関しては怪しい部分もあるかもです。

さて、いずれにしても二段組みの1263ページ。
来週の木曜からNYに行く身としては読みはじめるべきかどうか迷う。読みはじめたら荷物に入れて持ってかなければならぬ。それはあまりに重い。でも「水源」と同じくNYが舞台のようだし、向こうで読みたい気もしてくる。とはいえ毎晩飲むだろうしなぁ…。ミュージカル三昧と時差と酒でグダグダだろうしなぁ…。重いの持っていっても読むかなぁ…。とか、ある意味ゼイタクな悩みっぷり。

NYは、ブロードウェイで観る演目、ほぼすべて決定。オンラインで予約済。7日間で10本観る予定(笑)

そういえば一昨日だったか、今年のトニー賞のノミネーションが発表になった。「ベスト・ミュージカル賞」にノミネートされたのはこの4つ。

「Curtains」「Grey Gardens」「Mary Poppins」「Spring Awakening」

「Grey Gardens」以外は全部観られる予定(「Grey Gardens」がベスト・ミュージカル賞取ったらショック!)。
「スパマロット」出演で大好きになったデビッド・ハイド・ピアースが主演する「Curtains」が楽しみ。ディズニーの新作「メリー・ポピンズ」も意外といいかも。ちなみにノミネート数が一番多いのは「Spring Awakening」で11部門らしい。発表は6月10日である。

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アイン・ランド著「水源」読了

2007年05月17日(木) 5:36:59

二段組み1000ページの大部、アイン・ランド著「水源」読了。
前に書いたように、この本は1943年発表の古典であり、アメリカで700万部超売れているという大ロングセラーである。「アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100」の第2位でもある(1998年ランダムハウス/モダンライブラリー発表。ちなみに1位は同じくアイン・ランド著の「肩をすくめるアトラス」だそうだ)。なのに2004年本邦初訳という不思議な本でもある。

舞台はニューヨーク。モチーフは建築。
このモチーフは構造物としての音楽や文学や絵画にも置き換えられるし、フランク・ロイド・ライトをモデルにしたといわれる天才建築家の主人公ハワード・ロークもイエス・キリスト的普遍性を持つ。

実際は3日前に読み終わっていた。でもまだ頭が整理できなくて…。いまでも興奮さめやらず、ベッドサイドに置いてパラパラ読み返したりしている。あれ?ド頭のロークはどうだったっけ? この辺のドミニクはどうだったっけ? ゲイルはあそこではどう表現されてたっけ? とか、いろいろ振り返りたくなるのだ。

前半は軽快。中盤からは手に汗握る。終盤は小説というよりはほとんど思想を生で訴えてくる演説に近い。が、それがすべてのストーリーを受けているので説得力があるし実に感動的。数行読んではハァと来し方行く末を考えさせられ虚空を見つめる感じ。主要登場人物の印象が終盤に向かうに従ってすべて真逆に変化し、そのベールが静かに少しずつ剥がされていく構成も見事(全4章、それぞれ登場人物の名前になっている。読了後、その章立ての「意味」に気づく)。一見めちゃくちゃに見える主人公の行動や恋愛のカタチも、読み終わる頃には納得のいくものになっている。

そして、自分自身の中に巣くっている「善」と「悪」の価値観が1000ページかけて引っ繰り返される。一般的にイイコトとされている「利他主義」や「無私」の真の意味をえぐり出し、その欺瞞を追求する。その上で真の「自己中心主義」の素晴らしさを読者の胃の腑にすとんと落とす。その思想も筆力も凄まじい。

もう主題もなにもかもラスト近くにコレデモカと説明されているのでここでは書かないが、「他人の生き方をなぞるセコハン人生」「他人の評価で自分を決める精神」を激しく反省させられ、真に自己中心で生き、真の自由を得るためにどうあるべきなのか、心底考えさせられるのは確か。ハワード・ロークにはとてもなれないが、近づくにはどうすればいいか、この世の中で何を大事にすればいいか、激しく迫られる。読みながら「そこまでオレを追いつめないでくれ」と悲鳴を上げる。

まぁ読了3日目でまだうまく消化できてないので、多少上気しつつ書いているが、必読本であることだけは間違いない。ハワード・ロークやゲイル・ワイナンドを自分の中に飼って生きるか、そうでないかで、人生に大きな差がでると思われる一冊。

※1998年ランダムハウス/モダンライブラリーの発表に関しては怪しい部分もあるかもです。

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アイン・ランド!

2007年05月11日(金) 6:57:29

アイン・ランドの「水源」が強烈に面白い。
二段組み1000ページという驚異的に分厚い本。数年前にメールで強く勧められて買うには買ったが(5000円!)、ボクもその分厚さにびびって買ってから数年おきっぱなしだったのだ。が、いざ読みはじめたら止まらない。止まらないというか、衝撃を受けることばかり。実はまだ半分しか読んでないのだが、すでに呆然としている。こりゃすごい。

アメリカでは1943年に発売された古典で、累計700万部超。「アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100」の第2位にランクされているらしい。著者のアイン・ランド(女性)に魅入られた人のことを「ランディアン」とか「ランドロイド」とか呼ぶと言う。どうしていままで邦訳されなかったのか不思議すぎる本。日本初訳が2004年だ。この本に古典特有の(源氏物語的な)とっつきにくさがあるのならわかるが、とっつきにくさはほとんどなく、古さも全く感じさせない。ストーリーは手に汗握るし、主題も普遍的で瑞々しい。どうしてこんなに長く翻訳されなかったの?

まだ半分しか読んでないくせに熱く語るのも変なのでこの辺にしておくが、はっきり言って「20代で読みたかった」。ロマン・ロランを読まずして何の20代か、と言うのと同じ意味で、アイン・ランドも人間の精神が出来上がる時期にじっくり向き合っておくべき作家である。まぁ、でも、贅沢は言わない。生きているうちに読めてラッキーだ。ありがとう。そんな気持ち。あぁ続きがまだ400ページもあると思うだけでほんわか幸せな気分になる。読み終わりたくないなぁ。

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連休最終日

2007年05月07日(月) 19:13:43

昨日の連休最終日はとても静かに過ごした。
銀座松屋でやっていた「星の王子さま展」に行こうかと思っていたけど、それもやめてとにかく静かに。どちらかというとしんみりに近い静けさ。メールのお返事書いたり、本を読んだり。

あ、ひとつだけ賑やかなことをやった。
と言ってもTVドラマの「木更津キャッツアイ」をDVDで見た、ってだけだけど。ずっと見たかったけど見れてなかったので、数枚借りてきて家族で見た。クドカンの世界にあっという間に取り込まれ夢中に。よいねぇ。

ふと思い出して、このドラマのプロデューサーである磯山晶の「プロデューサーになりたい」を再読。現場の空気を活写した漫画である。そういえばこれ、「おもしろ本」に書いていない。こういう書き忘れが意外と多い。過去に遡ってじわじわ埋めるつもり。

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瀬尾まいこ

2007年04月24日(火) 7:34:39

娘は中学の図書室を早速活用していて、授業が始まった4月9日からまだ2週間しか経っていないのにもう5冊目を借りているようである。ボクにも「これがいい」「あれが良かった」と勧めてくれ、特にオススメが強かった瀬尾まいこをボクも読ませてもらった。

読んだのは「幸福な食卓」「温室デイズ」の2冊。
なるほど、いいかも瀬尾まいこ。特に「幸福な食卓」は良かったなぁ。出てくるキャラがとてもいい。直ちゃんも大浦くんも実に魅力的で、しかもリアリティがある。父も母も通り一遍でないキャラ設定で、シンプルに見える断片の奥底にちゃんといろんなものを抱えている様子がさりげなく描写されている。なんつうか「表面に見えている姿は氷山の一角」的な描き込みがちゃんと出来ている感じ。周到にキャラ設定して書き始める作家なのかな。そういうのを感じさせないのも瀬尾まいこのイイトコロ。

また、学級崩壊やいじめについても妙なリアリティがある。「温室デイズ」のテーマはそこなのだが、真っ向から立ち向かわないあっさり感が逆にリアリティを生むという構図がいいな。文中にも出てくるが、金八なら解決できるところをあえて解決させない「流し感」。このあっさりした収め方は逆に勇気がいる気がする。なかなかやるなぁ。

うん、瀬尾まいこの他の本も読んでみよう。
とりあえず紹介してくれる本の確かさがわかったので、これからもよろしく >娘

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ブログ数では日本語が世界一

2007年04月14日(土) 18:05:41

最近気になったニュースとしては「ブログ数では日本語が世界一」ってヤツ。

現在、ブログ検索エンジン「Technorati」が追跡しているブログの数は全世界で7000万。そのうち日本語で投稿された記事数は全体の37%で英語圏を抜いてついに1位に。」(GIGAZINEより
なんだかすごいな。日本人がそんなに発信欲が強い感じはしないんだけど、どうなのだろう。ただ、ブログを複数持っているヒトも多いようなので、単純計算はできないかも。

この前、ある会社のヒトと話をしていたんだけど、その人は入社の面接官をしていて、「ブログをやってますか?」と就活学生全員に聞いてみたらしい。で、結果は約8割がやっていたらしいのだが、驚いたのはそれぞれが持っているブログの数。なんと平均4つだったそうだ(mixiも含める)。英語圏の人が平均いくつくらい持っているのかわからないから比較はできないし、面接である程度見栄張ってる可能性もあるが、一部のアクティブな数十万人が複数発信している、というのが現状かもしれない。

それはともかく、カート・ヴォネガットが死んでしまったのはわりとショック。
まぁ「そういうものだ」(「スローターハウス5」での決まり文句)なのだが、ある時期の自分的アイドルではあったので感慨深い。彼なんかは、もし今彼が青春期を迎えていたら、機関銃のようにブログを書いていたひとりかもしれない。なんか「書く」という根本的情熱を、彼は教えてくれた気がする。

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池田晶子の墓碑銘

2007年03月22日(木) 6:28:14

週刊新潮の先週号に、先日亡くなった池田晶子の最終連載が載っていた。連載タイトルは「人間自身」。大好きな山口瞳のは「男性自身」だったな。男性も終わり、人間も終わってしまったか。

最終回は「墓碑銘」という題であった。
墓碑銘と聞いて思い出すのは「次はお前だ」というローマの秀逸なるそれだ、と書いたあと、では自分の墓碑銘は何が相応しいか、という展開になり、こう語る。

 それなら私はどうしよう。一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書きである。ならこんなのはどうだろう。「さて死んだのは誰なのか」。楽しいお墓ウォッチングで、不意打ちを喰らって考え込んでくれる人はいますかね。
連載ではこれが絶筆となった。腎臓ガンだったので、たぶん確信的だったのだろう。

「さて死んだのは誰なのか」

彼女の思考を追ってきた人にとっては至極胃の腑に落ちる言葉である。
というか、彼女にとって「死」は「無い」。他人の「死」は「在る」。でも自分の「死」は「無い」。つまり、この墓碑銘は他人への問いかけでもあるが、「死」は「無い」自分への問いかけでもある。

わかりにくいか。ええと、彼女の本「あたりまえなことばかり」から引用してみると(P109)、

「死とは何か」の一般的な答えとしては、無になること。そこで納得する。しかし、ここも非常に大事なところなんですけど、無というものは無いから無なわけです。無が在ったら無ではない。無は存在しない。存在しか存在しない。したがって、「死ぬということは無になることである」という言い方によって、そこで言われている無というものは無い、すなわち、死は無い、ということになります。にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きているのか。その視点を手に入れると、死が存在すると思って生きているこの世の光景が可笑しく見えてくる。無いものを在ると思ってるんですから。思い込みですね。世の中のすべてが錯覚の上で動いている。これはおもしろい。
 ですから、死が存在しないと気づきますと、「人生」という言葉の意味するところがまるっきり変わってきます。やがて死ぬ、どうせ死ぬと言えなくなっちゃう。なぜなら死は無いから。人生の意味ががらっと変わる。
 論理的に考えれば確かにそうなります。でも現実に人は死ぬではないか、と反論されるでしょう。確かに毎日、人が死んでいます。でも、死ぬのは常に他人なんですね。だれも自分が死んだことは無い。死は他人の死としてしか経験することができない。やっぱりそれこそが現実なわけです。これ、気がつくと非常に不思議なことなんです。
もしくは「14歳からの哲学」から引用すると(P50)、
 生死の不思議とは、実は、「ある」と「ない」の不思議なんだ。人は、「死」という言い方で、「無」ということを言いたいんだ。でも、これは本当におかしなことなんだ。「無」ということは、「ない」ということだね。無は、ないから、無なんだね。それなら、死は、「ある」のだろうか。「ない」が、「ある」のだろうか。死は、どこに、あるのだろうか。死とはいったい何なのだろうか。
 君は、たぶん、死ぬのを怖いと思っているだろう。死んだら何にもなくなるんじゃないかって。でも、何にもなくなるということは「ない」はずだ。なぜって、「ない」ということは、「ない」からだ。じゃあ、なぜ、「ない」ものが怖いんだろう。ないものを怖がって生きるなんて、何か変だと思わないか。
 逆に、死んでしまいたいという気持ちになることもあるだろう。死んだら何にもなくなって、すっきりするだろうなって。でもやっぱり、それも「ない」よね。死んだって、「ない」ということは「ない」のだから、それなら、死ななくたって同じじゃないかな。
 あるいは、他人を死なせたい、殺してしまいたいという気持ちがよぎることもあるだろうか。でも、もしも、殺しても実は人は死なないとしたら、どうする? それこそ本当に怖いことかもしれないじゃないか。
 さあ、君は、死のことなんか、まるっきり知らないということに気がついたかな。そりゃ当たり前なんだ。だって、君は生きているんだもの。生きている人が死のことを知らないのは当たり前なんだ。なのに、世の中の人はほとんど、この知らないことを知っていると思って生きているんだ。じゃあ、誰もが知っていると思っているこの「生きている」ということは、死を知らないとしたら、何を言っていることになるのだろう。
 自分で、考えてごらん。当たり前のことを考えるよりも面白いことはないのだから。
んー、もっといい引用がどっかに見つかりそうだけど、まぁいいや。いい加減長いし。


さて、死んだのは誰なのか。本当に死んだのか。ということは死は在るのか。無が在るのか。「ない」が「ある」のか。どこにあるのか。死がないなら、さて死んだのは誰なのか。

酒でも持ち込んで、ゆっくり彼女の墓と語り合いたい墓碑銘だよね。

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ポジティブに続く道

2007年03月13日(火) 8:20:54

女性作家がなぜか続いたのでいっそのことしばらくそうしてみよう、ということで、島本理生の「ナラタージュ」を読みはじめた(どうしてもナタラージュと言ってしまう:笑)。彼女の本は初めて。
この本はどうだかまだわからないが、男性作家に比べて女性作家は「ポジティブ」なテーマや結末を持っていることが多いと感じる。

3年ちょっと前に読んだ「どこにでもある場所とどこにもいないわたし」で著者・村上龍があとがきでこんなことを書いている。

強力に近代化が推し進められていたころは、そのネガティブな側面を描くことが文学の使命だった。近代化の陰で差別される人や取り残される人、押しつぶされる人、近代化を拒否する人などを日本近代文学は描いてきた。近代化が終焉して久しい現代に、そんな手法とテーマの小説はもう必要ではない。 (中略) この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった。社会的な希望ではない。他人と共有することのできない個別の希望だ。
文学の使命が変わったんだな、と普通に思う。
変わって久しいからこそ、どの本を読んでも希望の匂いがするようになった。女性作家の方がそれが顕著である。「近代化の終焉」に敏感なのだろう。
そういえば、最近若者にはやりの「泣かせ小説」だって涙の向うに希望の光がある。

サイトをやりはじめたころ、ネットがネガティブ・メディア(アンチ・メジャーメディア)だったこともあり、ボクもレストランや本をネガティブめに書くことが多かった。グルメ評論家やメジャーメディアが褒めるために褒めるなら「ネガティブな側面」を書く、みたいな姿勢である。そしてそれは有効だったと思うし、そこそこお役に立っていたとも思う。

でも、ネット自体がメジャーメディアになってくると急に違和感を感じはじめた。それは村上龍が言うところの「近代化の終焉」の影響もあったかもしれない。ネットの登場と普及が、近代化の終焉を推し進めた部分もあったのかもしれない。いつの頃からかポジティブを目指すようになった。
というか、時代的に「ネガティブの効力」が格段に薄まった。情報が単一だった時代には有効な気付きを与えた「ネガティブ」は、情報が洪水化した途端単なる「一意見」に落ち、ヒトはわざわざ読みたいと思わなくなった。ヒトはいま「個別の希望」が読みたいのだ。

「関西のおいしい店リスト」をリニューアルのために書き直していて特にそう感じる。
ほとんどが10年以上前に書いた記事だ。読んでいて「空気感」が違うのに驚く。ネガティブだ。自分ではそこまで意識してなかったが、やっぱりネガティブだ。自分も変わったのだろうが、特に時代の空気の変化を感じる。

もちろんネガティブな意見は古い、と言っているのではない。ネガティブな意見は必要だ。でも、そのネガティブは「ポジティブに続く道」でなくてはいけない。その辺がここ10年、特に大きく変わった気がする。

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今週末には桜開花

2007年03月12日(月) 12:50:30

おもしろ本、数冊更新しています。
なんか最近、女性の書く本ばかり読んでる気がする。なんなんだろう。春だからかも。

今年の東京の開花は3月18日だとか。
早いなぁ。卒業式のときにはもう桜が散り始めているかもしれない。入学式のときは葉桜だ。中学入学を控えた我が家にとってはちょっと残念。

で、18日にはsuicaとpassnetが合体し、JRも地下鉄もバスも私鉄も乗れるようになる。これはいいなぁ。大便利。開花日にピッタシ合うなんて、関係者は喜んでいるだろう。

あ、それと、関西の話だけど、18日から昔住んでいた夙川にJRが止まるようになるんだって? 駅の名前は「さくら夙川駅」とか。んぬぬ。こういう情緒的な意味をつけた地名や町名、駅名ってキライ。意味付けは住民や使用する人がそれぞれにするもので、強制されることではない。

とはいえ、夙川の桜は(個人的には)日本一。
あの辺の開花時期は知らないけど、18日なんて意外といいタイミングかもしれない。

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池田晶子死去

2007年03月03日(土) 8:55:12

死んで去る。か。
まいったな。ちょっと取り乱し気味。2月23日。46歳。腎臓ガン。

池田晶子の著作を初めて読んだのは、たぶん1992年。「事象そのものへ!」であったと思う。会社のとある上司に「読め」と紹介されたのだ。ちなみにその時もう一冊紹介されたのが池田清彦の「昆虫のパンセ」だったから、相当ハイブロウな上司である(中村さんだった。下の名前が思い出せない…)。

で、その後「メタフィジカ!」「帰ってきたソクラテス」あたりを読んで、それ以降ボクの中ではお馴染みさんになった。1996年以降に読んだのはこんな感じ。最近3年間に読んだ本はまだ感想を書いていないが。

冥福は祈らない。冥土での幸福を祈るということは、冥土での「存在」を肯定すること。「存在」とは何かを問い続けてきた彼女にそんなことをしたら笑われてしまう。

同時代に生きられて光栄だなぁ、と思える人をまたひとり失ってしまった。
彼女は死に際して何を考えたであろうか。今日はそんなことをゆっくり考える日にしたい。

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「宵越しの体力持ってんじゃねえ」

2007年02月27日(火) 12:56:40

そういえば今月頭頃に発売された「インタラクティブの流儀」(吉原有希著/インプレスジャパン)という本の第一章にボクの名前がわりと出てくる。ボクが仕事で関わったスラムダンクのキャンペーンが事例として取り上げられているのだ。ドキュメンタリータッチ(笑)。登場人物になったの生まれて初めて(照)。もし書店で見かけたらお手にとって見てみてくださいませ。


最近ずっと「書けない」話は数日前に書いたけど、本当にここんとこ書けないし能率も悪い。すぐ疲れる。やる気が上がらない。そんなボヤキを友人に話したら「受験疲れじゃないですか?」とアッサリ。あ、そっか。あれからまだ1ヶ月経ってないんだもんなー。本人ほどではないにせよ、親なりに共同戦線張ったわけで、疲れも出るころかも。
と、納得して楽になった。つまりは「理由」が欲しかったのだろう。少しスッキリした。

そんな自分に、タイミングよくこんな励まし。

「宵越しの体力持ってんじゃねえ」

雑誌「R25」で見つけた泉谷しげるの言葉である。前後もちゃんと引用すると、

"疲れないのか"って言われるけど、馬鹿言っちゃいけないってんだよナア。疲れるためにやってんだからサ。外に出て、疲れないようにしようったって不可能だこの野郎。思いっきり疲れるようにやれい、そしたらウチ帰って寝られるじゃん。宵越しの体力持ってんじゃねえ、吐き出して来い、全部

うん。その通り。ベッドに辿り着くまできちんと体力使い切ろう。体力残してるんじゃねえこの野郎。

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「真鶴」と「ひとり日和」

2007年02月26日(月) 12:40:45

まだ「おもしろ本」には書いていないが、川上弘美「真鶴」青山七恵「ひとり日和」が最近読んだ中では格段に面白かった。

川上弘美は、「蛇を踏む」のころのちょっとおどろおどろしい異化の表現と「センセイの鞄」にあるような性善説的ホンワカ感が見事に融合してきて、なんだか新境地的であった。言葉の選び方や会話の描き分けの鮮やかさ、ひらがなと漢字の使い分け、浮遊感と現実感の出し入れなど、細かいところまで計算しつくされ、前半と後半では手触りまで違い、うわぁと圧倒された感じ。すごいわ。「文学を読む楽しさ」を心ゆくまで堪能させてくれた。さすがだなぁ。

青山七恵のは芥川賞受賞作。石原慎太郎と村上龍が同時に激賞しているなら読まざるを得ない。
なんだろう、「イマの気分」についていろんな発見を与えてくれる小説だった。時事小説という意味ではなく、ふんわり捉えがたい「今の若者の意識の流れ」みたいなものを見事に紙の上に定着させてくれた感じ。全体に漂うのはイマが持っている微妙な「薄さ」なんだけど、文章自体は「濃い」のである。薄いものを薄く書いたり、繊細なものを繊細に書いたりするのは意外と難しくない技だと思うのだけど、薄いものを濃く表現したり、繊細なものを乱暴に表現したりするのって、かなりハイブロウな技だと思う。その辺が素晴らしいと思ったな。あ、この場合の「濃い」は、濃厚な表現という意味ではなくて「感覚に逃げていない」みたいな感じなんだけど。

二作ともそんなに厚い本ではないのに、読むのにすごく時間がかかった。というか時間をかけた。ゆっくりゆっくり味わいながら読みたい本だったのだ。その反動で今はページをめくる手をずんずんドライブしてくれる本を選んで読んでいる。森絵都の「DIVE!!」「一瞬の風になれ」系。これはこれで気持ちいい。

そういえば、娘はゲームとかでキャラに名前を付ける時「エト」と名付けているくらいな森絵都ファン。ボクは娘に紹介されていろいろ読んでいる最中(笑

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「仏像のひみつ」

2007年01月09日(火) 21:22:39

「仏像のひみつ」(山本勉著)読了。というか年末だけど。

あ〜全部わかっちゃったよ、仏像のこと。すっきりしたなぁ。
全部ってオーバーか。もともと東京国立博物館に勤務していた著者が「親と子のギャラリー 仏像のひみつ」展を企画しその内容を本にしたもので、つまりは子供にもわかるように書かれていて、枝葉末節は省略してある本なのだ。だから1時間もあれば読めてしまうし、もちろん「全部」はわからない。とはいえイイタイコトが極限まで絞ってあり実にクレバーに整理してあるので、スコンッと頭に入っちゃうのである。

いままでこの手の本をいくつか読んだことがあったが、学術的すぎたり詳しすぎたりで、どこかボンヤリした部分が残ったものだ。わかったつもりになったというか。理解してもすぐ忘れちゃったというか。
でもこの本はもう最低限のことしか書いていない。最低限なんだけどココがちゃんとわかるとすべて理解できるという部分を短くわかりやすく書いてある。ここまで絞って整理してくれるとイヤでもわかっちゃうなぁ。もう忘れない気がするなぁ。下手に詳しいよりこういう方が結局役立つんだよなぁ。この著者、受験参考書とか書かせてもきっと名人だぞ。

もともと般若心経を覚えてしまうくらいは古寺仏閣少年だったボク。
仏像も大好きで、たとえば奈良法華寺の十一面観音なんかはアイドル視していてわざわざ何度も会いに行ったくらいなのだが(というか部屋に小さなポスター貼っていた:笑)、まぁなんと長いこと仏像のことを理解せずにいたことか。近場の鎌倉でも行って、もう一度いちからいろいろ見てみたい気分。この本と「仏像は当時のロックスターだ」という珠玉の切り口の「見仏記」あたりを娘に読ませて、一緒に古寺仏閣めぐりをしてみたいものだ。めっちゃ老人くさいけど。

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「一瞬の風になれ」

2007年01月08日(月) 20:29:39

「一瞬の風になれ」(佐藤多佳子著)全三巻読了。
ものすごく真っ直ぐでイノセントな陸上短距離一人称小説。ちょっと前に買ってあったのだが、直木賞候補になったと知って慌ててこの連休に読んだ。直木賞とれるかな。どうなんだろう。シンプルすぎる気もするが。でも「走る」実感をここまで感じさせてくれる本もめったにない。ベッドで読んでいる間、何度もカラダが無意識に動いた。一緒に走っているような共有感。登場人物と同じトラックに立っているようなリアリティ。そして最後は少し泣かされてしまった。仕方ないな、この展開では(笑)

登場人物がみんな魅力的。よく書き分けられている。軽すぎるくらいの文体。凝った表現は出てこない。でもそれが不思議にマッチしている。だから混乱もなくあっという間に三巻読めてしまう。若い読者には向いているかも。
ただ、出てくる人がみんな良い人すぎるのがちょっと…。大人が考える理想的な高校生すぎ。健全すぎるんだよなぁ。でも(たぶん)あえてそれを狙って書いているのだろう。この時代、このように真っ直ぐ性善説的に夢を見られる小説は必要だ。

副産物的にだが、この本を読むと陸上(特に短距離)にくわしくなり、とても見たくなる。陸上競技の魅力が余すところなく描かれているのだ。スラムダンクを読んだ後に「高校バスケ冬の選抜」を見に行ってしまったみたいに、陸上のインターハイとか見に行きたくなる読後感。家族に読ませて一度一緒に見に行こう。

今年は大阪で8月25日から9月2日まで世界陸上が行われる。俄然楽しみになってきた。

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八千草薫!

2006年12月25日(月) 8:55:34

ルテアトル東京で、舞台「黄昏 〜On Golden Pond」を観てきた。
出演は、八千草薫、長塚京三、賀来千賀子、三浦浩一、中村友也、飯田邦博の5人。ヘンリー・フォンダ主演の映画で観ていたので(ちなみに舞台劇を映画化したもの)、筋も主題もお馴染みではあったが、映画を観たのは20代前半、あの頃感じられなかった「老い」への想いが様々に交差して、なんだか最後には涙ぐんでしまった。

というかですね、長塚京三演ずるノーマン(80歳)の言動がやけに「わかる」のですよ。
強い共感がある。思えば映画ではヘンリー・フォンダ演ずるノーマンをチェルシー(ジェーン・フォンダ)目線で「うぜぇ」と思って見ていた20代前半のワタクシ。時は移って20数年後のワタクシはすっかりノーマン派。主題の捉え方も180度違う。それが実感できただけでも収穫あり。でも80歳の気持ちにすっかり共感しちゃう45歳って…、どうなのよ?

ま、そんなことより驚異的だったのは八千草薫のかわいらしさであります。
実年齢は(失礼ながら)75歳かな。明るく前向きなエセルを演じたこともあるけど、それにしてもかわいすぎ。相変わらず美しいし、歌声もよく通るし、品があるし、なにより笑顔がキュート。いや〜、いい意味でオバケである。「人に見られる職業」なので一般人とは比べられないけど、それにしても素晴らしい年のとり方だ。

年をとる、ということを様々に考えさせられた週末。あぁそういえば読んだ本も「死にたくないが、生きたくもない。」(小浜逸郎著/幻冬舎新書)だった(笑)。体調不良も手伝って、少し自分に引きこもり気味。

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本城直季「small planet」

2006年12月24日(日) 9:08:50

昨晩は家でクリスマス・パーティ。ボクの父と母も迎えて。

娘の中学受験を控えているのでやるかやらないか一瞬迷ったが、やらないと機嫌悪くなって長く引きずりそうな気配があったので、クリスマスとお正月は普段通りすることにした。パッと楽しんでパッと切り替えよう。ご馳走作って(優子が)、いいワイン飲んで(大人が)、サンタの格好して(犬が)。

ボクから娘の響子へのプレゼントは本城直季の写真集「small planet」
実際の風景をミニチュア模型ライクに見せる大好きな写真集。何も知らずに手に取ると「ミニチュア模型で作った風景をいかにもリアルな風景っぽく撮っているんだ」と誰でも思う。でもじっくり見ていくと「あ、リアルをミニチュアのように見せているんだ!」と気づく。これが飽きない。箱庭好きにはたまらない。うわーうわーと感嘆しながら見てしまう。なんでも大判カメラのあおり(カメラでレンズと感光面をずらして撮影する技術)を使って撮るとこうなるらしい。ふーん。Photoshopでも作れそうだけど、後処理しないからこそのシズルがよく出ているなぁ。

とりあえず娘はこの面白さをわかってくれたようで、「おもしろーい!」を連発しながら見てくれた。よかった。

そう、現実は見方をちょっと変えるだけで非現実的になる。いつも「リアル」だと思って見ているもの、感じていることは、本当に「リアル」なのか。つか、リアルとは何なのか。いま生きている日常は本当にリアルなのか。そんな視点を与えてくれる一冊だ。よくできた文学や映画のように、日常を異化してくれる希少な芸術作品なのですね。小6には少々ハイブローかもだけど、こういう視点を持つと人生に「強く」なれるので、あえて。

ちなみに奥さんには ANNA SUI のパープルで小さめのコサージュを差し上げました。

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姉詩集

2006年12月08日(金) 5:29:59

早朝、というか4時から「姉詩集」を読んでしまい、頭が変な方向に活性化された。ちなみに書籍化されるらしい(ここでスレのまとめが読める)。あぁ1時間半も読んでしまった…。勉強しなくちゃな。でも目が痛くなったので二度寝します。

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「疑問」の提示

2006年11月27日(月) 21:09:27

「グレート・ギャツビー」の新訳を出した村上春樹が、毎日新聞のメール・インタビューに答えている。「今の日本人が『ギャツビー』を読むことに、どのような意味があるのか」と質問され、「現代を生きる我々にとってじゅうぶんに『同時代的である』」という意味のことを答えた上で次のように続けている。

優れた小説というのは、人に自然な疑問を起こさせ、自然な考察を要求するものです。そして読者それぞれが回答を模索し、その回答が読者にとって確かなアクチュアリティーを持つということです。どうしてニックはギャツビーという人間にうんざりしながら、彼に向かって「君は素晴らしいやつだ!」と最後に叫ばなくてはならなかったのか。その行為がどうして僕らの心を強く打つことになるのか。物語の中のそのような情景のひとつひとつの意味や成り立ちについて、あたかも「我がこと」のように真剣に考えさせられること---それこそが優れて現代的な物語の基準のひとつであると思います。

まぁ当たり前といえば当たり前のことを言っているのだが、冒頭の「人に自然な疑問を起こさせ」という部分に妙に納得してしまった。そうか。「疑問」なんだ。答えの提示でも考察の提示でもなく、「疑問」の提示なんだ。異化のしっぱなしでもないんだ。「疑問を起こさせる」んだ。つまらない小説やノンフィクションには「疑問」がないんだ。疑問がないから考察もなく、アクチュアリティーもない、と。なるほどー。

ふと手元にあった漫画「バガボンド」を読み直してみる。
あぁ「自然な疑問」にあちこちでぶつかる。考察と回答を要求され、自然と考え込んでいる自分がいる。そしてそこにアクチュアリティーが生まれていく。あぁコレか。優れた物語とか普遍性とか同時代性ってコウイウコトか。漫画も小説も一緒だ。と、ちょっと膝を打ったのでした。バシッ!


私信:こちらこそ。いつも豊かな気持ちにさせていただいています。応援してます。いつの日か、甘いの、待ってます。

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Gファイル―長嶋茂雄と黒衣の参謀

2006年11月23日(木) 9:24:21

TVで会見する日ハムの小笠原道大選手に向かって「よりによって巨人に行くな〜!」と叫んでしまうのは、今年になって妙に北海道と縁が深くなったからだけではない。このところの巨人に嫌気がさしているからでもない。どうせなら阪神に来て〜というファン心理でもない。この「Gファイル―長嶋茂雄と黒衣の参謀」(武田頼政著/文藝春秋/1905円)を読んだからである。まぁどのチームに行っても実はそんなに変わらないのかもしれないが、読売ジャイアンツという巨大泥船にわざわざ選んで乗り込むことはない。このチームはどうやっても変わらない。変われない。いったん浮かび上がるかもしれないが、また必ず沈んでゆく。この本に書かれていることが本当ならば。

この本は、アメリカ仕込みの最新スポーツ理論をもとに(ちょっと「マネー・ボール」を思い出した)、長嶋巨人のメークミラクルを長嶋茂雄の陰の参謀として完璧に演出した、河田弘道という人間のノンフィクションである。彼が「誰にも知られていない長嶋茂雄の陰の参謀」として在職した期間(94〜97年)に実際に長嶋監督(当時)に指示・提供した5000ページにも及ぶ膨大な「G FILE」を元に書き起こした労作だ。

長嶋茂雄の快活・苦悩・成功の裏側・実像、 選手・他チーム監督達の素顔、 優勝の裏側・確執・ドタバタ、 選手トレードの暗闇、 読売ジャイアンツという伏魔殿の裏の裏、 今後も変われないであろう組織の疲弊と老害、などを粘っこい筆致で活写している。というか、読み終わってまず感じたのは、日本の組織のどうしようもない閉塞感みたいなもの。結局改革に挫折していく河田弘道の絶望感がもう少し濃く描かれていれば、もっと普遍的なテーマになっていたかもしれない。

長嶋ファンは一読ちょっと呆然とするだろう。でもボクは彼が「常勝軍団として勝ちにこだわる監督」から「日本中で愛される長嶋茂雄」を演ずる方に方向転換&妥協したことを責められない。家族よりも自分を取ったことも責められない。天性の性格、しがみつき、義理など、いろんな要素があるとは思うが、あえてその役目を負った部分もあると思うのだ。それはそれで立派なことである。日本は彼の笑顔でずいぶん救われても来たし。

勝つための冷徹なサイエンティストとしての河田と、娯楽&人気商売&自分を優先したエンターティナーとしての長嶋。彼らふたりが完璧な二人三脚で歩いていたこと自体が奇跡であり、その後の決別は必然だったのだろうと思う。ま、そこに渡邉恒雄氏が絡んでくるので大変複雑な様相を呈すのだが。

個人的にはPNFという最新スポーツ医科学(手技)が興味深かった。PNFを受けた日の松井秀喜は実に7割の打率を残したという。いまもアメリカで受けているかなぁ…。

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食べず飲まずだと読書が進む

2006年10月18日(水) 8:23:22

「オタク・イン・USA」(パトリック・マシアス著/町山智浩訳/太田出版/1480円)読了。
なんつうか、アニメやマンガがアメリカでこんなに流行ってるんだー、という感慨と、アメリカでこんなに改悪されてるんだー、という怒りと、アメリカの田舎の生活って確かにつまんなそー、という実感と、アメリカの倫理観ってめっちゃ不自由そー、という溜め息と、アメリカにも話が分かるヤツがちゃんといるのねー、という共感と、少女マンガで日本を理解されるのは実際ありだなー、という安心なんかがありました。現場のシズルがよく出た好著。著者(訳者?)のオタクに対する距離感や愛情もちょうど良い。変に文化論にせずにアメリカでの実際を伝えてくれたことでいろいろよくわかった。つうか、なんだろう、ああいう底の厚い文化を生み出している日本に住んでいる人がこの本を読むんだ、というリスペクトみたいなものが底流に感じられるのが今までにない感じ。

「世界の果てのビートルズ」(ミカエル・ニエミ著/岩本正恵訳/新潮クレスト・ブックス/1900円)読了。
人口が900万人しかいないスウェーデンで75万部売れたというベストセラー。素晴らしかった。短編の積み重ねで綴って行く自伝的小説なのだが、そのリアリティと小説的ジャンプとのバランスが良く、自伝のくせに先行きが想像つかないのだ。プロローグ、そして最初の三章を読んで、一回本を閉じた。これは読者自身の想像力を試される本でもある。電車とかで読むのはもったいない。どこか旅先でゆっくり読みたい感じ(まぁ家のベッドで大事に読んだのだけど)。
それにしても活き活きと描かれる村の生活の魅力的なことよ。フィンランド国境に近いド田舎の村パヤラ。世界の果て。そこで暮らすヘンテコな男たち女たち。少年が起こす事件の数々。サウナと酒と衝撃的体験としてのロックンロール。いまやパヤラはこの本のおかげでちょっとした観光地らしいが、それもわかる。是非とも景色や空気感を共有してみたくなるほどだ。

いま読んでいるのは「ブッダは、なぜ子を捨てたか」(山折哲雄著/集英社新書/714円)。読まれるべくベッド横に待機してるのは「マティスを追いかけて」(ジェームズ・モーガン著/山岡万里子訳/アスペクト/2940円)と「のぼせもんやけん」(小松政夫著/竹書房/1575円)と「イリアム」(ダン・シモンズ著/酒井昭伸訳/早川書房/3150円)。

なんだかね、小松政夫の「のぼせもんやけん」が傑作くさい匂い。

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8時間睡眠でほぼ復活

2006年10月14日(土) 7:52:32

体調が急降下中で、昨日は早めに帰らせてもらい(といっても19時)、家に帰ってさっとメシ食べて即ベッドへ。プールに行こうと用意していったのだが、とてもじゃないがそんな体調ではなかった。翌日の土曜(つまり今日)も朝から出張なので、とにかく横になる。

ベッドの友は「エムズワース卿の受難録」。お会いしたことはないが訳者の小山太一氏とメールを数回やりとりしたことがあり、本を送っていただいて以来ウッドハウスの著作はお気に入り。ジーヴスも良かったが、このエムズワースも実に面白い。ゆっくりくすくす味わうのが向いている本なので、こういう時のお供にはピッタシ。

22時前には寝られたので、8時間も寝た。ぜいたくだ。そーとー復活。
ちゅうことで、いまから岐阜県は瑞浪(みずなみ)市に出張。お初だな〜瑞浪市。一度食べて好きになった和菓子屋「恵那川上屋」が隣の恵那市にあるので(調べたら瑞浪支店もある!)、お土産は和菓子だな。季節的には栗きんとん!

では、たった一泊だけど、行ってきます。
瑞浪の夜は、これまたそーとー濃くなる予定。

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数年前の巨人の野球

2006年09月10日(日) 12:10:22

外食を飽きさせるチカラって? と、もっと具体的に教えろメールが数通。
ええとですね、数年前の巨人の野球みたいな感じかな。他チームの主力打者を抜いてきて一番から九番までずらりと並べたあの頃の巨人。でも野球はつまらなかった。あれ?野球ってこんなに詰まらなかったっけ? みたいな感じがあった。あの頃の巨人が日本人に野球を飽きさせたのだと思う。

ホームラン狙いの四番打者はひとりかふたりでいい。一番には一番の仕事があり、二番には二番の仕事がある。四番打者がズラリと並んでホームラン狙っちゃうと野球が面白くない。つまりはそういうこと。出てくる料理が長距離砲ばかりで疲れちゃったのです。うまいし贅沢だし驚きもあったけど、ホームラン狙いの大技しか出てこないので、なんだかちょっと飽きてしまって「家で玄米でも食べたいなぁ」「素朴な赤出しが飲みたいなぁ」「目刺しかアジの開きか塩ジャケか冷蔵庫にあったかなぁ」とか食事しながら思ってしまった(笑)。具体的な説明になってない? んー、でもそんな感じだったんです。ま、個人的感想ですけど。

話は変わるけど、たまたま山下達郎の「夏への扉」がiPodから流れてきて、ハインラインの原作が無性に読みたくなり、本棚をあさったものの出てこず(たぶん誰かに貸したまま)、駅前の本屋で買ってきて今読んでいる。あぁおもしれー。というか、ハインラインのSFは上品でいいな。そういえば大天才ダン・シモンズの新作が出ているらしい。やばいやばい。ちょっとSFから目を離している隙にそんな情報すら耳に届かなくなっている。触れ続けることは大切だ。早く読まなくちゃ!

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ル=グインのとても控えめな抗議

2006年09月01日(金) 6:34:45

ある程度長くこのサイトを読んでくださっている方ならボクがどの程度「ゲド戦記」シリーズを愛しているかわかっていただけると思う。2003年2月、最終刊と思われた「帰還」のあと11年を置いて5作目「アースシーの風」が発売されると知ったときの喜びたるや!

個人的には「十二国記」も「指輪物語」も「ナルニア国物語」も越えると思っている「ゲド戦記」シリーズ。「ジブリがアニメ化」のニュースを聞いたときは不安でいっぱいだった。しかも続報で宮崎駿氏の長男が監督すると知ったときの衝撃。いや世襲がどうのとかは思わない。きっと優秀な人なのだ。それはいい。そうじゃなくて、あの世界的名作を経験のない新人監督にやらせることに衝撃を受けた。原作の想像力に勝てるのか? あの広大さを再構成できるのか? 百戦錬磨の監督ですらびびるような複雑かつ深い哲学のあの物語を。経験のない人が。

まぁ映画は観てないので(怖くて観られない)何も言う立場にないが、原作者であるル=グインのとても控えめな抗議を読むに、なんだかいたたまれなくなる。彼女が繰り返し書いているように、映画化が決まった時点でそれは作者の手を離れる。だから仕方ないことだ。作者にとっては。でも世界中にいる、長い年月「ゲド」を読み続けた読者はどうすればいい? 「ゲド」を利用して監督のイイタイコトを言うにしても、「ゲド」を愛し続けた世界中の読者の長い年月をもう少し考えてほしかった。うん。観てないから実のところはわからない。でも少しは敬意を持ってそのことを考えてくれていたなら、ル=グインはあんなことを書かないだろう。

リンク先の「中立的な訳」から一節だけ彼女の言葉を引用する。

アメリカと日本の映画製作者はどちらも、名前といくつかの考え方を使うだけで、わたしの本を原作と称し、文脈をあちこちつまみ食いし、物語をまったく別の、統一性も一貫性もないプロットに置き換えました。これは本に対する冒涜というだけでなく、読者をも冒涜していると言えるのではないでしょうか。

最近では「のだめ」のドラマ化で、シュトレーゼマンを竹中直人がやると聞いたとき、同じようないたたまれなさを感じた。こっちも怖くて観られない。

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「図書館戦争」、読了。

2006年08月21日(月) 6:55:28

誰だっけ、と少し考えて思い当たった。
なるほどビル・マーレイに似てるのね、バスケ日本代表のジェリコ監督。そっくりだ。

というか、昨日は全く精彩を欠いた日本代表。
まぁでも日本のバスケの問題は、コートやバスケットゴールが圧倒的に少ないことですね。だから入学するまで出来ないし、卒業したら出来ない。そういう環境で世界と闘うのもつらいよなぁ。

「図書館戦争」(有川浩著)、読了。
「本の雑誌」が選ぶ 2006年上半期エンタテインメント第1位である。
前半は、本書内の言葉を借りれば少し「痒かった」。でも、設定の秀逸さ、キャラ立ち、若者言葉のリアルさ、文章のリズムなどに引っ張られ、読み進むうちに止まらなくなる。武装化&銃弾の雨あられっつうあたりにもう少しリアリティ(そうなる必然性)があったらより完成度増すんだけどなぁ…。

とはいえ「メディア良化法」って怖すぎ。一歩間違えばありえるだけに。あぁ怖い。いい設定だ。でも現実には、図書館を守るよりも海外サーバーでの無償公開で悪法に対抗した方が有利かも。代金は心ある人のカンパ制とかで(無理か?)。ネットを利用する話がひとつも出てこなかった(と思う)あたりが、この時代のリアリティを少し欠いているかも。←ネットを利用するといきなり物語が陳腐になりがち&まだついてこれない人が多そう、というのもわかるけど。

この夏、10冊くらい本を読んだ。「おもしろ本」を復活させるまでは(秋予定)さなメモに少しでも書いておこう。

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ムラカミハルキの中にある世界的共感

2006年08月06日(日) 23:16:29

村上春樹集中再読は、短編もだいたい網羅して、やっと一段落した。
そういえばある方と飲んだときに「なんでそんなにストイックに全部読もうとするんですか?」と言われ、あれ?なんでだろう? と考えた。たぶん「村上春樹が世界的にとても流行っている」という事実をもう一度確認しなおしたかったからだと思う。

いままで、世界で本当の意味で流行った日本作家はいなかった。
ナツメだってカワバタだってミシマだってオオエだって、専門家やマニアは読んだだろうが、一般には特殊であった。特殊というか狭い意味で「ジャパネスク」と受け取られていたのだと思う。極東のエキゾチックな文化、みたいな。

でもムラカミハルキの流行り方は違う。アメリカやヨーロッパや韓国とかで普通にベストセラーだったりするのだ。ものすごい数の一般人が読み、共感している。彼らはムラカミハルキを「特殊な日本文化」と捉えはしないだろう。つまりムラカミハルキの中に「世界中の人が共感するある普遍」があるということだ。ボクは全小説再読作業を通じて、それが何なのか確認しなおしたかった(ってそんな偉そうなものでもないが)。

もちろん彼は現代日本を舞台に描いているわけで、彼が描く現代日本が「世界的共感として通用している」ということもボクにはやけに面白く感じられる。マンガやアニメやゲームでも現代日本は確かに通用している。でもそれらは新しいメディアだ。小説という古い古いメディアでそれが通用したことがやけに新鮮に感じられるのだ。

ムラカミハルキという作家を通して、ボクらの極東の日常が、世界的に共感される不思議さ。

なんとなく、初めて世界市民の一員と実感できたような、そんな感じをちょっと持っていたりして。

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テレビCM崩壊

2006年07月29日(土) 9:03:44

2004年末くらいから講演に呼ばれることが増えた(決して自分の力ではなく、たまたまそういう部署にいるから、だけど)。
そこでは事例をいろいろ示しつつだいたいこんなことを話す。

「ここ数年、消費者がガラリと変わった。情報洪水、成熟市場、ブロードバンドの普及などにより、情報の受け手であった消費者が送り手にも変わり、メディアの選択の仕方も激変した。彼ら自身すでにメディアであり、広告で説得すべき対象から一緒にブランドを作り上げる仲間にとっくに変わってきている。消費者がこのように変わったのだから、彼らに伝える広告の手法もトラディショナルなものから脱皮しなければいけない。テレビCM的なプッシュ型から、よりコンテンツ化したプル型へ。CGMを介した新しい伝達手段へ。代表的な例として、メディア・ニュートラル、ブランデッド・エンタテインメント、BUZZ(バイラル)などがある。いずれも、賢くなった消費者に見透かされぬよう細心の注意を払って取り組むべき手法である。そして、今後の主流はたぶん……云々」

この「テレビCM崩壊」という本は去年、NYでの「Branded Entertainment Summit」に参加したときに講演を聞いてとても面白かったJoseph Jaffe氏の本。その時一緒に講演を聞いていた織田浩一氏が「この本、訳して出そうと思ってるんですよ」と言っていたのをよく覚えている。とうとう出版、ということで予約し、出てすぐ読了。

ここ1,2年の、そしてこれからの広告の大変革をまとめた本で、著者独特の言い回しが多少読みにくいのだが、広告に携わるものとしては必読の一冊だろう。「崩壊する」という予言ではなく「崩壊した」という事実として語っていることを重く受け止めなければいけない。というか、これを読んで「へー」とか言っているプロがいるとしたらかなりヤバイ。書いてあることは危機意識が少しでもある人たちにとってはとても常識的なことだ。

ボク自身、トラディショナルな広告会社の"アン"トラディショナルな部署にいて、身に染みて危機感を感じているというか「背中は冷や汗でビッショリ」なのであるが、ボクは、外からではなく中からの変革を模索していきたいと思っている(間に合えば)。変化はチャンス。危機もチャンス。でもなぁ「針の穴を通すコントロールで頭をかすめるビンボールを投げないといけない」からなぁ。

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「山」

2006年07月23日(日) 8:05:29

あぁアデノウィルスのせいで早稲田の會津八一記念博物館でやっていた國吉清尚展に行けなかった。とっても残念。昨日の最終日、よっぽど行こうと思ったのだが、あまりに体調が悪く無理であった。なんだか寝てばかりいる。

「アフターダーク」が本棚に見つからず、アリャもしかしてこの「山」の中にあるのか、と嘆息。
ニューヨーク長期出張で2004年1月で途切れてしまった「おもしろ本」の更新だが(せっかく1995年からずっと続けていたのにねぇ)、一応それ以降読んだ本は「いつか書こう」と部屋の隅に「山」となって積んであるのである。もう200冊以上になっているだろう。書き終えていないから本棚にもしまえない。行き場のない本の「山」。

「アフターダーク」は2004年9月発売なので、確実にこの「山」の中にある。この「山」の奥から本を掘り出す覇気が今はない。村上春樹集中再読もここまでか…。つか、この「山」、いつどうやって崩すつもりだ? 家族からも文句噴出である。ううむ。とりあえず「おもしろ本」を再開して「山」がこれ以上高くならないことから始めないと。

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タッチ、タッチ、ここにタッチ♪

2006年07月22日(土) 10:49:25

目は見えない。喉は痛い。咳もとまらない。の、三重苦。菌をまき散らすから会社にも外食にも行けない。家族からもバイキン扱い。「キャッ、触らないでっ!」とか叫ばれちゃう大黒柱なワタクシ。まぁたしかに受験勉強中の響子にうつったら大変だ。手から間接感染するのでなるべく物に触らないで生きなければ。冷蔵庫も戸棚も触らない。ドアノブとかもなるべく触らない。冷蔵庫から Vittel を出すのも戸棚からコップ出すのも人の手を借りる。コップはすぐ洗う。マスク常用。消毒液も持ち歩いてすぐ手を消毒する。家族の3m以内には近づかない。犬の頭を介して感染する可能性もあるので犬をヨシヨシもできない。と、こんな風に珍しい人生を送っている今日この頃、岩崎良美の「タッチ」が愛唱歌。

とはいえ切迫した仕事が数本あって、電話とメールを駆使して対応。ネット上をファイルが飛び交う。家にいてケータイの電池切れは初めて。いったい何本電話したことか。まぁでも技術の進歩はありがたい。5年前なら這ってでも会社に行かなければいけなかったところ。ありがたいかどうかは考えようだけど。

「国境の南、太陽の西」「スプートニクの恋人」再読完了。「ノルウェイの森」と合わせて恋愛三部作、なのかな。カラダで実在を確かめる行為が実に美しい。「こちら側」の象徴としてのSEXをどんどん突き詰めていっている最中の村上春樹。「国境の南、太陽の西」で突き詰め切って、「スプートニクの恋人」で裏側に出た感じ。そこにはリアルな交わりという意味でのSEXはもうない。もうひとつ突き放してテーマをふんわり浮かばせている感じ。回転木馬が人工衛星になって三次元になった感覚に似ているなぁ。

「ねじまき鳥クロニクル」までは、理由なき暴力というテーマも明確に現れていたが、これと「スプートニクの恋人」の間で起こった阪神大震災と地下鉄サリン事件、そして自らの「アンダーグラウンド」で、明確にこの辺のテーマ性が深く沈降したみたい。「スプートニクの恋人」で沈んで、「海辺のカフカ」でカタチを変えて表出し、「アフターダーク」に至るということか。

村上春樹再読行も長編はあと「アフターダーク」を残すのみとなった。どうせ何にも触れない日々。ベッドでゆっくり紐解こう。

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「今」を生きるって?

2006年07月18日(火) 4:58:36

カラダの節々が痛く、花火大会でのポール立てなどの筋肉痛かいなと思っていたが、どうやら珍しく風邪ひいたらしい。昨日の午後からだるくなり、喉も急に腫れ上がった。ううむ。モノ食べるにも一苦労状態。今晩はフレンチ会食なのになぁ。参った。熱計ったら37.5度くらいなので、まぁオコチャマ風邪ではあるのだが。

「海辺のカフカ」再読了。初読時はこんな感想だったが、今回は、そうだな、より深く「空っぽな存在としてのナカタさん」に惹かれた。もしくは「間にある存在としてのナカタさん」。彼を通してこの